「いらっしゃいませ!」

ドアが開く音が聞こえて、メイは反射的に声を上げていた。

「こんにちは」

さわやかな印象の少年が入ってくるのが見えて、メイはそう遠くもない日の記憶なのに、どこか懐かしい気持ちで思わず口に出していた。


「あっ、ローランドさんのお店の!」

「覚えててくれたんだ?」

気を悪くする様子もなく、彼がにっこりと笑ってくれたので、メイも安心して笑い返した。

「はい。あの時はありがとうございました」

他に洋菓子店はないのかと失礼な質問をしたにもかかわらず、きちんと答えてくれたのだ。

「いえ。まさか、こんなにお店を繁盛させる売り子さんになるとは思いもしなかったけど」

彼の印象が、ローランド洋菓子店で感じたものとは異なるのは、どうやら敬語ではないその口調にあるのだとメイはようやく気が付いた。

「えへへ。失敗続きですけどね!楽しいですよ」

チョコチップクッキーをはじめ、チョコレートの扱いにはまだ慣れない。売っていい人とそうでない人との区別が全くわからない。

それにもかかわらず、チョコレート菓子以外を積極的には作らない菓子職人に、何とかまっとうな商品を作ってもらうのにも苦心している。

暗い印象の店の内装だけでなく、一見して洋菓子店だとはとてもわからない外装に手を加えることにも取り組んでいる。

いろんな成功や失敗を繰り返しながらも、今では客が来ることに驚くことはない毎日だ。


「休憩してる暇がないでしょ」

少年がそう言っても、メイはきょとんとして、首をかしげた。

「休憩?夜は早く休んでますよ」

今度は少年が首をかしげた。

「そうじゃなくて、昼間の休憩時間のこと。食事とかは、いつ取るの?」

メイは、ああそう言うことかと納得して、いたずらっ子のように笑いながらこう答えたのだった。

「ここで、そおっとしゃがんで食べれば、光の反射で見えないんですよ。行儀が悪いので、内緒にしておいてくださいね」

ここって、ショーケースの裏側のことか。少年は笑いながらも、やはり来て正解だったと思った。


「今日から俺もここで働くから、よろしくね」

笑顔の少年をまじまじと見つめ返して数秒後。

「うえええええ!?なんで!?お店辞めてきたの!?」

目を丸くしてのけ反るメイは、自分まで敬語を使わなくなったことにも気が付いておらず、彼はとうとう声を上げて笑った。

「いや、そう言うわけでもない。説明が必要かな?」

うんうんと激しく首肯するメイに、彼はこう告げたのだった。


「俺はソール。ローランドの息子で、菓子職人の卵だよ。親父が『ルースの技でも盗んで来い』って言ったんだけど、ルースの店を見かねて手伝いに出したんだと思う」

“ローランドの、息子”?

ローランドが、“親父”?

「へえええええ!!」

それって、つまりつまり、ルースの弟か何かじゃないか。いや、弟だ。メイは混乱する頭の中で、そう結論を出した。

「まあ、母親は違っていて、俺の母は人間だけど」

“母親は違っていて”?

“人間だけど”?


「へえっ!!」

さらさらと、驚きの真実を垂れ流すソールに、メイは一層頭が混乱。
2階から、眠っているはずのルースが「うるっせえ!」と怒鳴る声が、一応聞こえてはいたけれど、メイは気にする様子もなくぽかんとした顔でソールを見つめ続けていた。

「作る方も売る方も手伝えるから、安心して」

ぽんぽんとソールがメイの頭に優しく手を載せたから、ようやくメイは口を閉じた。

不真面目な職人と、不慣れな売り子の二人きりの店は、船頭も舵取りもいない船のようで、危なっかしかったから。メイは張っていた気持ちがふっと緩む自分に気が付いた。

「ありがとう、ソール。あたしはメイ。こちらこそ、よろしくね」

心底うれしそうに微笑むメイに、ソールはどきりとして、初めてローランド洋菓子店で彼女を見かけたときのことを回想する。

初めておつかいに来た子どもみたいに、店の前を行ったり来たりしていたメイ。

ぴかぴかに磨き上げられたショーウインドウ越しだから、店の中からだって、その様子はよく見えた。

意を決した様子でドアを開けた彼女は、予想していたような幼女ではなく、自分と同じくらいの年頃のようだった。上気した頬にキラキラした目で、傍から見ていてもドキドキしている様子で店内に入って来たものだった。


「かわいい」


思わずそう呟いたけれど、小さな声は、彼女の耳には届かなかったようで、安堵したことをよく覚えている。
それからの日々にしても、広場で何かを売っているメイを見かけて、何度声をかけようと思ったことかしれない。


「えっと…、何が?」

戸惑ったようなメイの声が鼓膜に届いて、ソールははっと我に返った。

「あ、えーっと、店の看板。メイが書いたの?」

慌ててそう繕った。まさか、「かわいい」なんて言葉が、無意識のうちに口から出ているとは思ってもみなかった。冷や汗をかきつつ、ソールはとっさに思いついたことを尋ねてみた。

「そうなの!本当?かわいくできてる!?ルースが『すげー悪趣味』って言うんだよ!」

ぷっと頬を膨らませて見せるメイは、幼いけれど、その柔らかそうな頬に触れてみたいと思う気持ちを抑えつけながら、ソールは穏やかに笑って見せた。

「かわいいよ」

まあ確かに、あんなふうにハートだの音符だのを散らした看板は、兄の好みではないだろう。

それでも、看板ひとつなかったこの店を、気持ちのいい場所にしようと奮闘しているメイが、やっぱり一番かわいいと、ルースは思うのだった。





「うわあああああ!!」


その日の夜更け、隣の部屋から、ものすごい悲鳴が聞こえて、メイははっと目を覚ました。

その瞬間に大きく弾んだ心臓が、まだどくどくしていて、その胸を押さえながら、メイは慌ててベッドから転がり落ちるように飛び出した。

2階にある2つの部屋のうち、狭い方をすっかり片づけて、そこで寝起きするようになったメイは、迷わず隣のルースの部屋のドアに向かい、ノックすることも忘れてバン!と大きな音をさせて開け放った。

怪我!?泥棒!?火事!?


「あ」

不安でドキドキしていたメイだが、床に敷かれた一組の布団に仰向けに寝ているソールと、しっかり目が合った。

さっきの悲鳴は、たぶんソールのものだろうと思ってはいたものの、メイは動揺した。

なぜなら、そのソールの肩には、しっかりとルースの腕が絡みついていて。ソールの頬には、ルースの唇が寄せられていて。

ふたりの体は、まるで恋人同士のようにぴったりとくっついていたから。


「ちょ、ちょっと、誤解だから!」
「ごめんなさい!」

ほぼ同時に、メイは慌てふためいて回れ右をし、再び廊下に転がり出たのだった。

「起きろ!ルース!!」

「んぁ」

「もー、マジ迷惑!!」

「へへ」

「嫌だ、この酔っ払い!!」
「…」

「だ、抱きついたまま寝るなー!!」


隣の部屋のドアを開けっ放しで出てきてしまったらしく、メイは戻ってきた自分用のベッドで布団にもぐっていたものの、丸聞こえの会話に笑いを堪えるのが大変だった。

「ほんとにルースはキス魔なんだ?弟にもしちゃうんだ?男にもするって言ってたもんなぁ」

ソールの憤りや戸惑いや恥ずかしさが、手に取るように分かり、メイはなおさら笑えた。


「…いってぇな。グーで殴んなよ」

ソールの抗議が激化して、さすがに寝入ることができなかったらしいルースの声が聞こえて来た。

「ルース飲み過ぎ!最低だ!」

珍しく興奮した様子でソールがぎゃあぎゃあわめいているのもおかしい。


「お前の唇の感触も最低だ。メイの方がうんと柔らかかったなぁ」

むにゃむにゃとルースがそう言ったのがかろうじて聞き取れて、メイは堪えていた笑いがぐぐっと喉につっかえて咳き込んだ。

「な、なに!?」

「なにって、弾力と言い、柔らかさと言い、ガキのくせになかなか理想的な唇だった」

ソールの声に、生真面目に答えている飲んだくれの言葉に、メイは心底気絶したいと思った。

「てめー!!」


ソールが半分眠りかかっているルースの襟首を掴みあげているとはつゆ知らず、メイはくらくらする自分の頭がショートしないよう必死で励ましていた。

なんで覚えてるの!?あんなに酔っ払ってたくせに!!しかもソールに感想言うとか、信じられない!!ルースの馬鹿!!

かーっと熱くなるのは頭だけじゃない。メイは火照る頬をばちばち叩いていたせいか、その後はなかなか寝付けなかった。




「ね、おいしい?」

ソールは、メイがもごもごと、そのオレンジピールを咀嚼するのを待ち切れずに尋ねる。

「おいひー!」

メイは、オレンジの香りとチョコレートがこんなに合うとは知らなかった、と素直に感動してにっこり笑った。

「え、それだけ?」

ごっくん、とすっかり飲み込んでしまったメイに、目を丸くしてソールはそう言う。

「ん?すごくおいしかったよ?」

「……」

ソールはちょっと首を傾げて何かを考え込んだものの。

「もう1個あげる。あーん」
「?」

ソールに言われて、不思議に思いながらも、メイは口を開いた。

「んー、やっぱおいひいねぇ」

にこにこと幸せそうに笑うメイを、やっぱりかわいいと感じつつも、ソールは納得がいかない様子。

ぶは、と、ルースが噴き出し、見かねてこう告げた。

「俺のチョコレート、メイにはあんまり効かねーみたいだぞ」

「えっ!?」

驚きの声は、ソールだけでなくメイの口からも飛び出した。

「ななななな何これ、そう言えば、これもチョコ使ってる!!これには一体どんな魔力が!?」

動揺したメイを見て、ルースはますます笑い転げる。

「ちょ、ちょっとぉ!ちゃんと教えてよ!!」

慌てるメイ。確かに、彼女の態度には明らかな変化は見られない。


「…“恋に、落ちる”」


ソールはため息をつきながら、そう教えた。

「落ちてねーな?」

ひー、おかしい、と大笑いしながら、ルースは本当に床に転がってしまった。
「変人菓子職人。あんたが床に落ちてどうすんのよ」

はあ、とメイは呆れつつも、自分に何の変化もなかったことに安堵した。

「もう。ソール、あたしを実験台にしたの?ソールが食べてみればいいじゃん。はい、あーん」

ソールは、メイが柔らかそうな赤い唇を、至近距離で「あーん」と一緒に開けて見せるから、ついつられて口を開いてしまった。

ぽいっと放り込まれたオレンジピールを噛みしめながら、いっそう強くメイに惹かれていく自分を認めて、やはり兄のチョコレート菓子の魔力は恐ろしいと思った。

「くくっ。お前も目立つ変化はねーな?」

ソールの心の内を見透かしたように「目立つ」のところを強調してルースがからかうので、ソールは真っ赤になったけれど、何も言い返せなかった。

だって、いまだに、好奇心に満ちた瞳でローランド洋菓子店のドアから入って来たメイの愛らしさに、心を奪われたままなのだから。

「どうしたの?ソール、疲れた?」

様子のおかしなソールを心配して、メイが顔を覗き込むから、どきりとしたソールは思わずのけぞった。


「いや…、まあ、ちょっと。それより、この店って、定休日ないの?」

ソールは気を取り直してそう尋ねた。

「え?定休日って何?」

メイとルースはそろってそう答えたけれど、ふたりの頭の中の認識は全く違うのだろうと、ソールにはきちんと推測ができた。

おそらく、メイは定休日の指す意味を、本当に知らない。

そして間違いなく、ルースは意味を理解したうえで、定休日なんかいらないという意思から、そう聞き返したのだと。

「たとえば、毎週月曜日は、店を休むってこと」

だから、メイに答えた。

「え!?そんなことなんでするの!?」

「働く人の心と体の健康のためじゃないの?」

「なるほどね!」

メイはふんふん、と納得した様子で頷いた後、また心配そうな顔に戻って、じいっとソールの顔を見つめた。

「ソール、今日を定休日にしていいよ。あたしが店番するからね」

そう言ってにっこり微笑むので、ソールは頭を抱えた。

「…そうじゃないんだ。別に俺が特別疲れてるわけじゃない。みんなで休むの。店も開けないで」

「そうなの!?」
「ルース、俺、メイに町案内してやりたいから、定休日作ってよ」

「ほ」

相変わらずだるそうに、ルースは奇妙な返事を返しただけだけれど。

「町案内!?何その楽しそうな行事!!」

メイは予想以上の勢いで食いついたのだった。


「はっきり『デートに誘いたい』って言えば考えてやるよ」


生粋の悪魔のように、ルースがけたけたと笑い、真っ赤になったソールは自棄になったかのように。

「メイ、明日デートしよう!」

そうメイに告げた。

「あ、あたし!?」

さすがにその意図するところを推測したメイは、ぱっと頬を染めた。


「なななななんで!?あた、あたし、デートじゃなくても、町案内で十分楽しいよ?」

ソールの好意はなんとなく感じ取れるものの、田舎育ちで幼いメイには、まだ「デート」という言葉に抵抗があるらしい。

「ガキ」

くくく、と体を折り曲げるようにして、ルースが笑う。

「うん、じゃあ、デートで町案内するから!ルース、明日が定休日ね!」

押しつけるようにして、強く言うソールにも、ルースは「へえ」とどっちだかよくわからない答えを返しただけだった。

それは町案内なのか?デートなのか?とぶつぶつ言うメイを尻目に、あっという間に翌日になった。





……落ち着かない。


メイは、ソールと洋菓子店を出て小1時間もしないうちに、早くもそう自覚せざるを得なかった。

絶対ルース、寝てるよね。

まだそれほど強くはない朝の光に、メイは彼の生活サイクルを考えて、店番なんかしてるはずはないと思う。

「なんで店閉めないんだろ」

自覚なく漏らした独り言に、ソールがふっと微笑んで答えた。

「閉めるのが怖いんだよ」
「え」

「困り果ててる客を見過ごすことと、自分が完全に自由になることとの両方が」

完全にわけがわからなくなって、メイは、独り言を聞かれたことの恥ずかしさを感じる暇もなく首を傾げた。

くすりと笑い、ソールが自然にメイの手を取ったから、思わずメイも握り返してしまった。

「チョコレート中毒の人がそんなにたくさんいるの?」

疑問を投げかけながら、まっすぐに自分を見つめて来るメイに、ソールはドキリとする。

「まあ、中毒じゃない人もいるけど、ルースのチョコに縋りたいって人は多いだろうね」

それは、誰かと仲良くなったり、辛い気持ちをやわらげたりしたい、ってことなのだろうとメイは納得した。


「じゃあ、自分が完全に自由になることが怖いって、どういう意味?」

ソールの言葉を思い返しながら、メイはそう考えをまとめながら尋ねた。ルースは、自由気ままに見えるのに。

「うーん。なんとなく。作ったチョコの魔力を持て余しながらも、それを存在意義だと思い込んでる気がしない?楽しいから、誇りに思うから、って理由でチョコを作ってるようには見えないだろ。でも絶対に毎日作るしさ」

ソールの言うことは、なんだか難しくて、メイには理解し切れないけれど、ルースがだるそうにチョコを作る姿を思い出すと、その通りなのかもしれないと考えた。

「チョコを食べる方じゃなくて、作ることに、依存してるって言うのかな。むしろルース自身が一番チョコレート中毒だったりして」

ふーん、とメイは言いながら、そう言えば、ルースがチョコを食べているところを見たことがないと思う。

「作る中毒か。菓子職人っぽいね!ああ見えてもプロだね!」

メイがそう言うと、ソールはぷっと噴き出して、「メイは何でも楽しい話に変えちゃうね」と言いながら、きゅっとメイの手を握る指に力を込めた。


「はっ!」

大げさに息をのんでメイが真っ赤になった。

「うわぁぁ、ててて、手、汚いから!!」

メイは大慌てでソールの手を振り払い、大げさに飛び退いた。

「え、今更?」

メイの様子がかわいいやらおかしいやらで、ソールは笑いながらこう尋ねた。

「メイは男と手を繋いだことがないの?」

赤い顔のまま、メイはきょろりと目を上に向けて考えた。

「友達としか、ない」

ソールは、その「友達」の方はどんな気持ちだったのやら、と思いながらこう訊かざるを得なかった。


「じゃあ、俺は友達じゃないの?」

聞かない方がいいような、聞きたいような。そんなソールの気持ちを知らずに、メイは叫ぶ。
「友達だけど!友達、だけど!!でででで、デートとか、言うから!!」

そして、再び顔を真っ赤にしてどすどす一人で早歩きして行ってしまう。

「そっかぁ、友達か。ま、でも」

静かにそう言いながら、あっさりとソールはメイに追いついて、またするりと手を繋いでしまう。

「ひゃあああ」

肩を大げさにそびやかすメイに苦笑いしながら、ソールはこう結論付けた。

「男だって意識してくれれば、とりあえず今はいいか」