「あれ、今日はもう片付いてるじゃん」

早朝、起きて来たメイは、厨房にルースがいないことはもちろんだが、シンクや調理台に汚れたボールや泡だて器などが見当たらないことにもすぐ気が付いた。

大抵、メイが姿を現すまで、ルースはだらだらとチョコレート菓子を作っていて、「マドレーヌ焼いてね」と念押しされてから渋々焼き菓子も作る。

そして、そのまま厨房を放置して眠ってしまう。

寝室に行くのはまだいい方で、メイが朝食を取るテーブルに突っ伏して寝てしまうこともあれば、床に倒れて眠ることさえある。


「……ちゃんと寝てるのかな」

だからこそ、メイはふと胸によぎる不安を無視できなくなる。

酔っ払って外で寝てるんじゃないだろうか、いやいや、ひょっとしたら、とうとう心臓発作でも起こして倒れてるんじゃないだろうか、と考え始めるともうじっとしていられないのがメイ。

厨房に足を踏み入れることなく、踵を返すと、たたたたと急ぎ足で階段を上り、ノックもなくルースの部屋のドアを開ける。

そこで、傷んだ体を庇うように丸くなって眠るルースの姿を認めて、メイはほっとした。

足音をたてないようにそっと近づいて、床に落ちていた毛布をかけてやる。眠るルースの顔からは、ぼさぼさの髪が払われていたせいか、思いのほか彼が幼く見えた。

「どうしてそんなに滅茶苦茶なんだろうね、オニイサン」

やはり本人の言う通り、40歳には程遠いらしいと思いながら、メイがそう言って、ちゃんと息をしてるかどうか確認するため、その顔に手をかざす。


生きてる。


メイは、手にルースの呼吸を感じると、無意識のうちに安堵のため息を漏らしていた。でも、眠る時にも消えない濃いアルコールの香りに、彼女は顔をしかめた。

その拍子に、ルースの頬にわずかにメイの指が触れた。すると、毛布の端から大きな手が伸びて、メイの手をぎゅっと握った。


「母さん」


メイは、自分が呟いたのかと思ったけれど、自分は母親のことを「ママ」と呼んでいたことをすぐに思い出す。
ルースの寝顔をまじまじと見つめ返したメイは、彼が完全に深い眠りの中にいることを確認すると、その手を離すことができなくなって、もう一方の手で包んだ。

「ルースのママはどこにいるの?」

もちろん、彼が自立して生活できていることはメイもわかっている。

ただ、自立しているのは経済的な意味だけだ。

まともに食事もとらないし、寝起きする時間も太陽とずいぶんずれている。お金だって、店のお金と、ルースのお金を分けるようになったのは、メイが来てからのこと。

彼を訪ねてくる人たちの様子は、よそよそしさと馴れ馴れしさの両方が混じっていて、なんだかおかしいと、メイもさすがに感じている。

純粋な親しみを込めた目で、ルースを見る人がいないことに気が付いたのは、いつ頃のことだろうか。

そして、何より異常なのはアルコールの摂取量。

まだお酒を飲まないメイだけど、ほとんど水やお茶を口にしないルースは、さすがに尋常じゃないとわかる。そのうち、病気になるんじゃないかと秘かに心配もしている。

親はいないのかと、何度口にしそうになったかしれない。

だけど、ルースもメイの両親については何も尋ねない。マドレーヌが好きな訳を訊かれたときに、メイの方から話しただけだ。

だから、「ルースのパパとママはどこにいるの?」と言葉をかけたことはなかった。

メイにとってここはあくまで通過点であり、そこまで互いに深入りする必要もないと思っていた。ときどき顔を見せる小人にも言った通り、マドレーヌさえ食べられれば、すぐに出て行こうと思っていたくらいだ。

だけど、そのマドレーヌ一つにずいぶん高い対価を払わねばならないようだし、かといってすぐに他の仕事や住処を見つけることも難しそうだ。

そんな理由で、メイはしばらくの間はここで働こうと思っている。


「ルースのママ。息子が辛そうですよ」

メイは、そう呟いて、ルースの伸び放題の髪を少し撫でた。

何が辛いのかはよくわからないけど、彼の「母さん」という掠れ声は痛々しく、母親を失ったばかりのメイの胸に突き刺さるようだった。

生きているのに、会えないのだろうか。

生きてさえいれば、会えるはずなのに。

メイは、天涯孤独となった自分の境遇を再認識しながらも、ルースの境遇を想像せざるを得なくなった。



「おぉ」

再び厨房に下りてきて朝食の支度をしようとしたメイは、網の上においしそうなクッキーが並んでいるのを見つけた。

一瞬きらきらした目は、すっと輝きを失った。

「…ダメ職人め」

並べ方がおかしいのだ。

クッキーを冷ますつもりならば、せめて網の上に平らに広げるべきだと、素人であるメイですら思うのに、行儀の悪いクッキーたちは、重なったり固まったりしている。

そのせいで、まだしっとり温かいクッキーを一枚手にとって、「失敗作なのかな?」と一人ごちながら、メイは齧ってみた。


「すんごいおいしい…」

メイは目を見張ってそのクッキーを見つめた。とりわけ目を引く形でもないし、珍しい材料を用いた様子もないのに、甘さの加減や小麦の香り、焼き具合から、口に入れたときの崩れ方まで、完璧だった。

「おじさんって、やっぱり天才なのかも」

メイは、その後、朝食の支度をし、それをぺろりと平らげながらも、この理想を形にしたようなクッキーをどうしようかと思案し続けていた。


「んふ。いいこと思いつーいた♪」

メイは鼻歌を歌いながら食器を洗い終えると、店を開ける前に外に飛び出したのだった。



「な、何事だろう」

メイは、次々に店に客がやってくるので、初めは面食らった。

毎朝マドレーヌを広場で売っていたので、少しずつ来店する客も増えたとは思っていたけれど、それにしても今朝は異常だと思う。

「こんにちは」

来る人来る人皆笑顔で、ショーケースにはすでに商品もないのに、メイと言葉を交わしたら「また来るね」と、機嫌良く帰って行くのだ。

「あのクッキー、よっぽどおいしかったのかなぁ」

メイは、原因はそれしかないと思う。

今朝の広場では、マドレーヌを売るだけじゃなく、クッキーを試食してもらったのだ。どうせ販売するほどたくさんないのだから、今後の店の宣伝になればいいと思ってのことだった。

皆が同じように、新商品なのかよくわからないけれど、クッキーを気に入ってくれたことを嬉しく思った。



「失礼」

そんな中で、厳しい顔立ちの中年の男が店にやってきた。

メイは、すぐにこの人はクッキーを食べた人じゃないと気が付いた。記憶にないと言うだけでなく、その服装や表情から。


「いらっしゃいませ」

とりあえずそう声をかけたものの、その男はショーケースを一瞬見、その後店内をぐるりと見回して、小さなため息を漏らした。

「あなたに、話があります」

その声は堅く、メイはお転婆をするたびに学校の先生に呼ばれたことを思い出して、「はい」と小さく返事をしたのだった。


「私は、ローランド。広場のそばで洋菓子店を開いています」

「ああ!初めまして。あたしは、メイです」

町へ初めて下りた日に立ち寄った店だと、メイも思いだした。この店の比じゃない立派な店だった。


「そして、ルースの父でもあります」


「え!?」
思わぬ展開に、メイはまじまじとローランドの顔を見つめたけれど、実直そうな彼の顔立ちがあまりにルースのものとは異なっていて、信じがたいくらいだった。

「今朝、ルースの作ったチョコチップクッキーを売りましたね?」

メイの露骨な視線が一向に気にならない様子で、ローランドは静かに話を続ける。

「あ、いえ、試食を、してもらいました」

驚きも冷めぬまま、メイはなんとかそう答えた。

「どちらでも構いませんが」

ローランドの店のそばで出張販売したり、試食させたりしたことを咎められるのだろうか。メイはそのことに思い至って、どうしたらいいのかと忙しく考えていた。


「あれの作るチョコレート菓子は、危険です」

「へ?」

まあ、放っておくといつもチョコレートのお菓子しか作らないから、奇妙だとは思っていたメイも、危険と表現されるような認識はなかった。
「普通の菓子じゃない。理解していない人間が他者に食べさせたり、あるいは自分で口にしたりしてはならない」

きっぱりとそう厳しい声でローランドは言い切った。

「ああ、おいしすぎますよね」

にもかかわらず、味を思い出して嬉しくなったメイが、そう言って思わずにっこり笑うと、ローランドは困ったように首をかしげた。


「味は問題ではありません」

「え」

一番問題だろうとメイが言いだす前に、ローランドは急いでこう告げたのだった。


「ルースのチョコレート菓子には、魔力が宿ります」


メイはきょとんとしたが、すぐにリキュール入りチョコレートを一粒食べたときのことを思い出した。

心の痛みが変に和らいだこと。ルースが「辛い現実を、忘れさせてくれる」と言った時の妙に厳かな声。

そういえば、「チョコの効果を感じにくいタイプ」なんじゃないかとも言われたっけ。

メイは、ルースの言う「効果」とやらを、ローランドが魔力と呼んだのだと、気が付いた。


「こんにちは」と、また客がやってきたので、メイは、その人にもう商品が売り切れたことを説明して、店の前に臨時閉店の紙を貼った。



「…なんか、うるせーな」

目覚めたルースがいつも通りのだるい体を引きずるようにして、1階に下りて来た時には、ちょうどローランドが席を立ったところだった。

「珍しい客」

乾いた声で呟いたルースに、メイは困惑した。父親が訪ねてきたときの反応としては、ふさわしくないと感じて。

「お前こそ、珍しく熱心な売り子を雇ったな。ちゃんとチョコレートの説明をしてなかっただろう」

ローランドは驚く様子もなく落ち着いた声でそう言っただけだった。

「どーせこいつはマドレーヌしか売らねーし」

ぐっ。

確かに、ルースの作る洋菓子は、ほとんどチョコレート菓子なのに、毎朝わざわざ広場に出掛けて売るのはマドレーヌだけだった。メイは思い返して言葉に詰まる。

「彼女、今朝はチョコチップクッキーを無料配布してたぞ」

「は!?」

「これからは彼女に会いたいという客がずいぶん来るだろう。さっさと追加の商品を焼くことだな」

そう言いながらも、すでにローランドはルースに背を向けて、ドアから出て行くところだった。


「お前、あれ配っちゃったの?」

ルースがおかしそうにそう言いながら、珍しくメイの方を見た。

「うん。失敗作かと思って齧ったら、すっごくおいしかった。とんでもなくおいしかった。新商品だと思い込んで、試食してもらっちゃったよ」

「ふん」

笑い声だか、相槌だかよくわからない声を漏らすルースは、ひそかに「おいしかった」というメイのあどけない声が耳に残る自分に気が付いていた。
「はあ…、でも、ルースのチョコって、危険だったんだね」

「まあ、金にはなるけど」

けっけっけ、と変な笑い方をする酔っ払いをよそに、メイは「はああ」と、ため息を吐いた。


この店は、町の最北端だけども、その先の森を抜けると、悪魔の国がある。

その強い魔力で世界を統治しているのは、メイのような一般的な「人間」ではなく、「悪魔」の王なのだ。

地域によっては、人間と悪魔が一緒に暮らしているところもあるそうだ。だが、メイが育った村も、この町にも、悪魔はいないらしい。

外見はほとんど人間と変わらないため、見分けにくいけれど、何らかの特殊能力を備えているので、じきに周囲にも知れるところになるはずなのだ。

先ほどのローランドの話によれば、どうやら、ルースの母親にあたる、「ルイーザ」という人が、悪魔だったらしい。


何も知らずに結婚したローランドだけれど、そのうち、店が異常に繁盛したことや、妻の奇妙な言動により、彼女が悪魔だったことに気が付いた。

が、特に害もなく、子どもにも恵まれたため、3人で暮らしていたのだそうだ。
ただ、その子、ルースがおもしろ半分にローランドの菓子作りを真似はじめたころから、事情は変わり始めた。

ルースが作るもののうち、ルイーザが最も好んだチョコレートを用いた菓子に、不思議な力があることがわかったから。

ローランドは、ルースを菓子作りから遠ざけようとする一方で、ルイーザは喜んで作らせようとする、そういうところから始まって、頻繁に悪魔の国に帰省するルイーザとの間に、修復不可能な溝ができたのだと説明した。

とうとう、15歳のルースを置き去りにして、ルイーザはいなくなった。

「母さん」と頼りない声で呼んだ、ルースの声は、確かに少年のようだったと思い返すと、メイの胸はちくんと痛んで、彼女は慌てて気持ちを切り替える。


「それはそうと、あのチョコチップクッキーにはどんな効果があるの?」

気を取り直して尋ねるメイに、ルースはあまり関心もなさそうに、だらりと体をテーブルに倒して答えた。

「“友達になれる”」

ローランドが客がたくさん来ると言ったのは、そう言うことなのだ。メイを友達だと思って、気軽に店に遊びに来たのだろう。
「あたし、町中の人と友達になっちゃったかも」

想像するとおかしくなって、メイはくすくす笑った。

「ねえ、友達においしいものをプレゼントしたいから、もっとクッキー焼いてよ。チョコなしでいいから」

笑顔のままでメイがそう言うと、ルースははあ、とため息を吐いた。

「変なガキ。チョコなしだったらたいした意味ねーのに。金にもなんねーし、焼かねーよ」

「はあ!?」


「そんなもんでできた友達なんて、所詮偽物だ」


テーブルに突っ伏してしまっただらしのない体勢のルースの声が、乾いていて、メイは少し胸を突かれた。

「これから、本物にするの」

「あ?」

「ルースのチョコチップクッキーがくれたきっかけを、無駄にしないで本物の友達を作ればいいんでしょう」
想像すると本当に楽しくなってきたらしく、ふふふふと無邪気な笑い声を洩らすメイに、ルースははあ、と重いため息をついた。

きっと、こいつの頭の中は、花ばっかり次々に咲いてるんだろうな、と思いながら。




「う…、頭、いてぇ」

老人の嗄れ声のような、自分の声で、ルースは目覚めた。

気がついたメイが、口にコップを寄せるから、ルースは反射的にその中身をごくりと飲んだ。

ぶっ。

味のないその液体に、驚いて吐き出した。

「飲んで」

またそのコップを口に押し付けられたから、ルースはムッとした。

「これ、酒じゃねえだろーが。水だけ?」

メイが、きゅっと口元を引き締めて、頷く。

「二日酔いにはアルコールが一番効くんだよ。酒入れてきて」

いつもそうしてたのに、とりわけ頭痛のひどい今日に限ってなんで水なんだとイライラしながらルースはコップを突き返す。

「少しずつでも、お酒を飲まない時間を延ばしなさい、って言われたから」

「は?」
「クッキー買いに来るお医者さんに相談したの。やっぱり、ルースはアルコール中毒だって。すぐには無理だけど、お酒を飲む時間帯を、少しずつ後ろにずらして、休肝日もあるような生活を目標にしなさいって言ってたよ」

思い立ったらすぐに行動を起こすタイプのメイは、時折店を訪れるようになった好々爺が白衣を着ていたため、医者だと気づいたその場で相談したのだった。

「ちっ。余計なお世話だ。クソガキにキツネおやじ」

まあ、確かに先生はキツネにちょっと似てるけど、と前置きしながら、メイが続けた。

「みんな心配してるんだよ」

「うっぜー!」

「もう。減らず口!」

むぐっ

強引に口を押し開けて、水を流し込まれるから、ルースは思わずそれをごくごくと飲んだ。


「…ガキめ、何が目的だ」

「はあ?」

お酒を飲んだときのように、少し溢れた唇の滴を拭うルースに、メイは首をかしげた。

「金が欲しいのか?それとも店か?土地は借りもんだぞ?」

はあ、とため息を吐いて、メイは呆れ顔。

「何言ってるの?私には住むところがあれば十分。ちゃんと、マドレーヌのお金も返す。ただ、ルースに元気になって欲しいだけ」

「わけわからねー」

苦しげにうめくように、ルースが言葉を絞り出す。

「なんでわからないの?ルースはボロボロだよ。お酒を飲み過ぎて寝てるときは、気を失ってるんじゃないか、息が止まってるんじゃないか、って何度も確かめなきゃいけないくらい」

ルースは、泥酔している間に、メイが様子を見に来ていることなど、当然ながら全く知らなかった。


「確かめる必要ねえし。死んでも放っといてくれ」


胸が微かに震えたような気がして、それを打ち消すように毒を吐く。

「この、バカ!!ほんとにダメ人間なんだね!!」

かっとなってメイが、体を揺さぶるから、ルースの視界は大きく回る。

「うわ…、頭いてーって。うっ」

慌ててメイは揺するのはやめたものの、まだその顔には怒りが見える。

「嘘つき」

「はぁ?」

鋭い目つきのメイに、今度はルースが首をかしげた。

「いつでも、助けてほしいって思ってるくせに」


強い口調のメイに、ルースが言葉を失ったのは一瞬だけのこと。

「思ってねーよ」
「声が小さい」

「…お前、うっぜぇ、マジで」

「じゃあ、追い出せばいいじゃない」


メイの声は、わずかに震えていた。

本当に追い出されたら、どうしよう。行くところなどないのだ。それでも、売り言葉に買い言葉、飛び出した言葉は取り消せない。

その一方で、ルースの方から、本気でメイを追い出すことはないのではないかという当てのない憶測を持っていた。

いい加減で、だらしないこの菓子職人は、それこそアルコールに流されるように日々の生活をやり過ごしている。

それは、一見したところ、好き勝手に生きていて楽しそうにも見える。へらへら笑って上機嫌な時にはなおさら。

でも。

「母さん」と呼んだルースの声が、メイの耳から消えない。

そのときの、大きな手なのに頼りない握力が、メイの右手から消えない。


ルースは、メイに言われた言葉のせいか、残留するアルコールのせいか、頭だけでなく胸もずきずきしてきた気がして、「店閉めといて」と言い捨てると、2階の自室に引き上げたのだった。

「閉めないからね!」

そう言い返しながら、メイは追い出されずに済んだ安堵とともに、自分を追い出せなかったルースの心理状態に対する心配も胸に抱え込むこととなった。