消化不良な感じ。なのに、気持ちのほとんどは、ずいぶん楽になってしまっていて。

「ふーん。お前、俺のチョコの効果を感じにくいタイプなのかもね」

特に関心もない様子で、男はそのチョコレートを載せたトレイを持ち、店頭へ続くドアに消えた。

「効果?効果って、何の?」

メイの問いかけは、男には届かない。そのとき、チーンと音がして、メイはその方向を振り返った。

「あっ!!」

大きな業務用のオーブンの中、貝殻を模した菓子がこんがりと焼きあがっているのが見えたのだった。

はあ。重いため息とともに、男が戻って来て、一口酒を口に含むと、だらだらしたわりには慣れた手つきでグローブを両手にはめて、オーブンから天板を取り出した。

「これ食ったら、出て行けよな」

念押しのように男が言う言葉にも、メイはきらきらした目で素直に頷いた。


ローランド洋菓子店のマドレーヌにそっくりだ。形は同じだと言ってもいい。
「いい香り」

ただ、レモンの香りがずいぶん強いように感じられる。焼き立てだからだろうか。メイの記憶にあるママのマドレーヌも、レモンの存在をはっきり感じられるものだった。

「まだ熱いかな?」

「熱くても早く食え」

明らかに自分を早く追い出そうとしている男にも、メイは気分を害した様子もない。ローランド洋菓子店とは違って、皿に乗せられることなく天板の上に載せられたままの対応にも、不満げな色はない。

彼女は、マドレーヌに夢中だから。

「無―理―!」

待ち切れずに触れてみたものの、あまりの熱さに指を引っ込めたメイに、男はくっと笑いをかみ殺した。

「なんでそんなにマドレーヌが好きなわけ?」

ふわぁ、と欠伸をしながら、男が訊ねたのは、暇つぶしだとわかっていたけれど。メイは、母親の穏やかな笑顔が頭の中いっぱいに広がるのを感じた。

「先週死んだママと、よく一緒に食べたから。庭で、ママの育てる花に囲まれながら」

意外に鬱陶しがらずに、男が黙って聞いている様子なので、メイはあれこれ母親との思い出を話した。
「もう冷めたよね、きっと」

「ん」

手に取ったマドレーヌは熱いけれど、もう持てないほどじゃない。食べられないほどじゃない。

「いただきます!」

ぱくりと勢いよくかぶりついて、口の中から鼻にまで広がるレモンの香りに、メイはライザの好んだ花々が、目の前に次々に咲き始める幻覚を見た。

バラ、ブルーベル、クレマチス、ライラック、ポピー、スイセン、デイジー。


ママ。ママ。

あたし、ママのことが、こんなにも大好き。

それはきっと、ママがあたしをそのくらい愛してくれたってこと。


季節も時間も飛び越えたその幻影の中、メイが自覚した思考は、それだけ。

マドレーヌを1個食べ終えてからも、メイは放心状態で泣き続けていた。

そんな彼女を、同情も侮蔑も含まない目で静観していた男は、一見冷たいようにも見えたが、透明なその視線はメイの神経を逆なですることはなかった。


「ありがとう」


どのくらいの間、泣いたのか、メイは呼吸も心も落ち着いて、ようやく男にそう伝えた。

「ん」

男はやはり、たいした反応も見せなかったけれど。

「おいしかったぁ。懐かしくて、さっきの酒臭いチョコレートより、うんと気持ちが楽になった。もっと、たくさんの人に食べてもらうべきだと思うよ、おじさんのお菓子」

「おじさんじゃねーよ、オニイサン」

ようやく言葉を発したと思ったらそんな内容ではあったが、メイはちょっと驚いた。

「え?40歳くらいじゃないの?」

「も、嫌だ、このガキ」

「だって、ぼさぼさの白髪」

「そんなに白くない!」

どうやら、彼にとってグレーの髪色はコンプレックスだったらしく、思わぬ強い反応に、メイはペロッと舌を出して「ごめんね」と謝った。


「ところで、おいくらですか」

突っ立ったままではあったが、メイは居住まいを正すように、ぴんと背筋を伸ばして、まっすぐに彼を見て訊ねた。

酒におぼれているこの菓子職人自身は尊敬できないけれど、彼の作るマドレーヌには敬意を表して。


「1万ポンド」


「……へっ?」
「1万ポンド」
「聞き間違いかな…」
「1万ポンド」
「…天板1枚分で?」
「1個で、1万ポンド」


「あああああああ、あたし、1個食べちゃった!!」


激しく動揺するメイが、“そんなお金払えるか”とも、“そんなに高いはずがない”とも言わないことで、男はこう告げた。


「働いて、返してくれてもいいけど」


相変わらずほとんど目を合わせないで、はぁ、とため息を吐いて、だるそうに立ち上がり、面倒くさそうに片付けを始める男。その一連の動作を、しばらく呆然と眺めていたメイ。

「ぐえっ」

ようやく内容を理解した直後、男の背後から勢いよく抱きついていた。

「おじさん、ありがと!」

と満面の笑顔で言われ、今では、「おじさん」ではないと否定する元気もないほど、疲れていることに、男は気が付いた。
「あ、ごめん。痛かった?疲れたの?寝る?あたし片づけておくから」

口数の多いメイに呆れながら、面倒で適当に首を縦に振っておいた。

「おいで」

「おじさん」呼ばわりしたくせに、メイが幼い子を扱うようにそっと手を取って、階段まで導くから、男は苦笑しながらも、疲れていたので何も言えなかった。

倒れるようにベッドに転がりこみ、そのうつぶせの状態のままいると、メイが靴を脱がせて足まできちんとベッドに乗せるのを感じた。


「おやすみなさい。いい夢を」

ベッドサイドのメイが、優しく毛布を引き上げて、髪を撫でてそう囁く。まるで、母親のように。

男は深い深い眠りに落ちた。


「げえっ、まぶしい…」

階段を下りてきた男は、げんなりしている。

日差しを好まない彼が、締め切っていたはずの家中の窓のカーテンが、全て開け放たれている。その上、ガラスまで曇りなくピカピカに磨きあげられている。

朝方、放置したままの厨房も、綺麗に片付いている。ただ、道具がいつもと違うところにしまわれてはいるが。


はあ。面倒くせー…。

男は、もはや言葉に出すのも面倒で、コップに水とアルコールを注いで一気に飲み干した。

「おはよう!って言っても昼だけどね」

物音に気がついて、メイが店に続くドアから顔をのぞかせた。

「シチュー作っておいたから、お昼ごはん食べよう」

てきぱきと皿やスプーンを出すメイに、男は仕方なく声を絞り出した。

「食えない」

「はぁ?」
「寝起きは、何も食えない」

「へえ、変な体質だね」

そう言いながら、男の持つグラスを見て、メイは目を疑った。傍らにはしっかりお酒の瓶らしきものが置いてあるのだから。

「シチューが食べられないくせに、お酒は飲めるの?」

「うむ」

「威張るな!」

信じられない、と言いながら、メイは自分の皿にだけシチューを入れ、すぐにぱくぱくとおいしそうに食べ始めた。

「あれ、定番商品にしてね」

「あれとは?」

「マドレーヌ!」

「売れねえよ」

ずいぶんなこだわりようだと苦笑いする男に、メイはきょとんとして答えた。


「もう売り切れた」

「…は?」

「もう、全部、売り切れた」

「…はあ?」

「あっ、ごめん、1個3ポンドで売っちゃったけどね!」

あはは、とメイが笑いだすから、男は呆然とした。値段ではなく、売り切れたことに。

「なんで?朝からそんなに客が来るとも思えねーんだけど」

往来から程遠いこの場所で開店して以来、そんな日は一日たりともなかった。

「こっちから人の多いところに出向けばいいでしょ。中心にある広場で、売って来た」

事も無げにそう言うメイ。

「あ、そうだ、このお金、どこに入れたらいいの?籠に入れっぱなしだった」

確かに、メイが指差した籐で編まれた籠は、以前は焼き菓子を入れていたものだけれど、今はそこに硬貨や紙幣がばらばらと放り込まれている。
「…ショーケースの横の木箱」

頭がぼーっとするのは、アルコールだけのせいじゃないと思いながら、男はとりあえず答えた。

「あー、おいしかった。ごちそうさま!」と元気よく言いながら、メイは席を立った。言われたとおりに店にお金を片づけに行ったのだろう。


「ちょっとぉ!」

今度は、木箱を持って、慌てて戻ってくる。

「なんだよ」

ほんとに騒々しいガキだな、と男が呆れているれど、メイは信じられない、という顔つきでこう言った。

「お金、ぐっちゃぐちゃにつっこんであるんだけど!何これ!?」

「んあぁ」

「まともな返事をしろ!」

やかましいのを雇ってしまった、と何度目かの後悔をしながら、男はテーブルに突っ伏した。いつもだるい体は、今朝もやはりだるく、起こしているだけでも嫌になる。


「ダメ職人っていうより、もはやダメ人間だな…」

メイの呟きも耳に届かないわけじゃないけれど、否定できた状態でもないので、彼は聞こえなかったふりをして、目を閉じた。

しばらくの間、ちゃりんちゃりんとお金を小さな箱に区分けして、計算していた様子のメイが、「げっ、意外にたくさん入ってる」と怯えた様子で慌てて蓋を閉めたときには、思わず笑ってしまったが。



「こんにちは…」

微かな声が、店の方から聞こえてきて、メイが「はーい!」と元気よく立ち上がった。


「『女』かな」


ぼそりと呟くルースに、首を傾げながら。

メイが「いらっしゃいませ」と言いながら店に顔を出すと、女が一人、戸口に立っていた。

観察するようにメイを眺めながら、「ルースはいますか」と彼女が言うと、それを予想していたかのように、男がのっそりと出てきた。

「リキュール入り?」

彼が前置きもなくそう尋ねると、女はこくりと頷いた。

「おじさん、ルースって名前なんだね」

ショーケースの裏側に屈んで、中のトレイから小さな箱にキューブ状のチョコを入れるルースにそう囁くと、彼ははあ、とため息を吐いた。

「オニイサンだろ。お前は?」

「オネエサンかなぁ」

自信なさ気に言うメイに、ルースはくっと笑いをかみ殺した。


「『オネエサン』っていうより、『ガキ』がぴったりな、お前の名前は?」

ぷっ。頬を膨らませつつも、メイはそう言えば自己紹介一つしないで転がり込んだことに、ようやく気が付いた。

「あたしはメイ。よろしくお願いします!」

勢いよくケースの裏側で頭を下げるから、ごつ、と鈍い音がして、ルースに頭突きしてしまい、ふたりで悶絶した。

はあ。

もうこれで何度聞いたかわからないため息をこぼしながら、だるそうな足取りで近づくと、ルースは女の手にそのチョコレート入りの箱を載せてやり、そのままふたりでドアから出て行った。

「んもう、なんでこんなに散らかってんだろ」

ぶつぶつ言いながら、メイは暇な店を放置して、あちこちの物を片づけている。

でも、少しずつ綺麗になっていくのを見ていれば、自分の胸の寂しさも、また少しずつ消えて行くこともわかっている。


「そろそろご飯食べに帰って来るかな、ルース」

夕方の遅い時間を指す時計の針を見て、相変わらず生気も覇気もない菓子職人を思い出す。

メイがここに転がり込んで1週間。どうやら、深夜から夜更けにまとめて商品を作り、朝から昼過ぎまで眠るのが、彼の生活リズムらしい。

主な栄養源は、アルコール。完全に中毒と言ってもいいレベルだと、メイが見たってわかる。

おいしそうに飲んでいる時もあるけれど、自らを滅ぼさんばかりに飲んでいる時もあり、吐いたり倒れたりしている時もあって、お酒に強いんだか弱いんだかも、判断しづらいほどだ。

ときどきは、メイの作った食事の残りを、仕方なさそうに食べている。いい加減な時間に食べるせいで、出来立てを食べることは滅多にない。

そして、ときどき、ふっと姿を消して、しばらく戻ってこない。
「猫みたいな人だな」

気まぐれで、愛嬌があるのか、人を寄せ付けないのか、よくわからない。掴みどころのない人。


一方で、メイはと言うと、朝の支度を終えたら、開店し、広場で焼き菓子を売るのが日課だ。昼には戻って来て、昼食を取ったり、店や2階を片づけたり掃除したりする。

夜になったら店を閉めて、食事をとったりシャワーを浴びたりしてから、眠る。朝目覚めて厨房に行くと、商品を作り終えたルースと入れ替わる、というリズムで暮らしている。


ルースが昼夜逆転の生活を送っているおかげで、ふたりが顔を合わせる時間は意外に短い。

午後にルースが目覚めてから、メイが眠るまでの夜。メイが目覚め、ルースが眠るまでの朝のわずかな時間。



「お帰りなさい」

にこっと笑って見せ、「あっ」と慌てて鍋の蓋を取る、変わりないそそっかしいメイに、ルースははっとした。
「お腹空いた?お友だちも一緒に食べるでしょ?」

当然のように、食器類を3つずつ並べて、こちらを見もしないメイに、ルースは言葉に詰まった。「お友だち」とは?嫌な予感。

「…あれっ?」

無口な彼を不思議に思ったメイは、再度振り返って一人足りないことに、ようやく気がついたらしい。

「お友だち、もう帰っちゃったの!?嘘!!」

張り切って5品も作っちゃったのになぁ、と肩を落とすメイは、やはりさっき店に来た女を、ルースの知り合いだと思い込んでいるらしい。変なやつ。ようやくルースは声をかける。

「なに、お前、そんなにあの女が気に入ったのか?」

一瞬見ただけの人間に、どうしてそんなに親切にするのか、理解ができなくて。

するとメイは、キョトンとした顔になり、こう答えた。

「私が気に入るとかどうでもよくて、ルースの数少ないお友だちだからだよ」

「…変な、ガキ」

「数少ない」のところが図星過ぎて、言い返せないルースに、メイは一向に気が付かない。

「はあ!?どこが変なの!?ガキって今は関係なくない!?」

カチンときたメイが、睨み付けてくるけど、ルースは力が抜けたようにガタン、と音を立てて椅子に腰かけた。

「疲れてるの?今日も飲み過ぎ?」

メイは、答えないルースに、小さくため息を吐いて、抗議するのを諦めた。

女を連れてふらっと消えたんだから察しろよ、とルースは内心思う。

これまでの売り子なら、ルースが女性客と共に姿を消すと、嫌悪感を露にしたり、好奇心を隠しきれない程度ならまだいいが、場合によっては嫉妬を剥き出しにしたりしたものだ。

ところがメイは、そのどれでもないご機嫌な様子で、鼻歌混じりに、ルースの前にも皿をコトリ、と運んでくる。

「ん?」

メイが、その手を止めて、不意に身を屈めたと思えば、ルースの首に顔を寄せた。

どきりとして、ルースが身を堅くするのに、メイは、にこりと笑ってこう言ったのだ。

「花からもらったいい匂いがする。お友だちがつけてくれたんだね。お酒の臭いよりうんと好きだよ」

「…ふーん」

なんと答えるべきかわからず、ルースはメイから目を逸らした。
天然の花から抽出した香水、どれほどそれがいい香りだとしても。それは、親切心から女がつけてくれた香りではなく、自らを魅力的に見せようと努力したその片鱗が、ふたりで共有した時間の内にルースに移っただけのことだ。

メイをぐちゃぐちゃに汚してやりたいという苛立ちが沸き上がる、その反面で、この清らかさを守りたいという良心もわずかながら芽生え、ルースは気分が悪くなってきた。

それを感じたメイがあたふたし始めるが。

「えっ、ひょっとして、出ちゃう?ちょ、トイレまで…、あ」

その場で床に吐き始めてしまうルースの背中を、メイが優しく撫でる。

「ちょっと待っててね」

ルースは、朦朧とした意識の中で、8年前に恋い焦がれた女性をありありと思い出した。

すぐに戻ってきたメイに、されるがままシャツを脱がされ、熱いタオルで顔を拭かれる。

「ん?なんか他にも汚れてる」

独り言を言いながら、メイがルースの口元を拭ったタオルはうっすらとピンクに染まる。

いくら自分がノーメイクでも口紅くらい思い付くだろ、と思ったのを最後、ルースはテーブルにうつ伏せのまま、浅い眠りに落ちた。


やはりふらりと帰って来たルースに、手を焼きながらも、メイは、他人と暮らすことって意外とうまくいくんだな、と思っていた。


ところが、それからしばらく経ったある日の明け方、とんでもない方法で起こされ、これまではたまたま「うまくすれ違っていた」だけなのだ、とメイは悟ることになる。


ああ、苦しい。胸が痛む。

メイは、まだ睡眠と覚醒の境目をさまよいながら、母親を亡くした直後の、ベッドから身を起こすことができなかった朝のことを思い出す。

胸だけじゃない。全身が重く、体のあちこちがぎしぎしと嫌な音を立てそうな感じさえする。

いや、重いだけじゃない。体が動かない。

むちゅ、と変な音とともに、顔に妙な感触を覚え、いくら熟睡型のメイと言えども、目蓋を持ち上げざるを得なくなった。


「…え?」

目の前のものが何か認識しかけたとき。

再び、ぶちゅっと言う音を耳でとらえた直後、メイは全力でそれを撥ねのけた。

「いやああああ!変態!痴漢!」

わめく声の後ろで、どっすん、と重い音がするけれど、その音の原因となったルースは床でもピクリとも動かない。

「わああああん!!」

メイはそのまま床に突っ伏して、盛大に泣き出してしまった。

はたはたと、微かな羽音をさせて、1匹の深緑の鳥が彼女の肩に止まった。爪の感触に気づいて、メイはしゃくりあげながら顔を上げて、その鳥を見つめた。

「べべ」

いつからか、山の家に迷い込んだのを、可愛がっているうちに居付いてしまった鳥だった。窓を少し開けておくと、部屋に入ってきたり、出て行ったり、気儘にしていることが多いのだが。


「ファーストキスだったのに…」


ぼたぼたと大きな涙の雫を頬にこぼしながら、メイがベベに愚痴を言う。

そう。目覚めたメイの目の前に迫っていたのはルースの顔だった。あろうことか、メイはダメ人間のキスでいつもより幾分早い起床を余儀なくされたのだった。
おそらく、体が重かったのも、ルースが手や足でも乗せていたんだろうと思う。

「最悪!酒臭いし!嫌!」

ごしごしと唇を擦っているメイが、真っ赤に濡れた瞳でルースの背中を睨んでいることに気が付いたかのように、べべはその小さな緑の翼を広げて飛び、ルースの頭にたどりつく。


「う、う――…、うわあっ」

さすがの酔っ払いも、べべの鋭い嘴がついついと地肌を刺す痛みには耐えがたかったらしく、珍しく大きな声を上げて目を覚ました。

「いってーって!おい、メイ、お前の鳥、何なんだ!?」

大きな手で追い払われて、べべはそれをひらりとかわしながらも、窓のところまで逃げた。

「ちゃんと躾しないと追い出すぞ」

まだ眠そうに目をしょぼしょぼさせながら、ルースが低い声で言うから、メイは涙目のまま、涙声で叫んだ。

「一番躾がなってないのはあんたでしょ!!」
「ちがいないね、ははっ」
「おもしろくなーい!」

「あれ?なんで泣いてんだ?」
ようやくメイの泣き顔に気付いたルースは、きょとんとして言うから、メイは怒り心頭。

でも、「あんたのキスのせいだ」と口に出せずに、怒りと恥ずかしさで真っ赤な顔のまま、無意識のうちに唇を手の甲でごしごしと擦っていた。


「げっ。俺、キスした?」

そんなメイの仕草で、ルースは自分の失態に気が付いた。メイが明確な返事はしないものの、涙目で睨んでいるのは肯定だと思わざるを得なかった。

「俺、キス魔らしいんだよね。大丈夫、男にでもするくらい見境ないから」

何が大丈夫なのかと頭が痛くなってきたメイ。

「そんな性癖があるってわかってるなら、女の子のベッドに入ってこないでよ!」

思わずそう抗議したものの。


「お前が俺のベッドに入ってたんじゃね?」

「……」

「……な?」

「……ベッド買ううううぅ!!」

「金ねえくせに」

確かにお金はない。がっくりと頭を垂れて、持ち金がほとんどないだけでなく、メイは朝からかなり多くのエネルギーまでも消費してしまったことに気付いた。

だとしても、何がなんでも、もうここで睡眠をとるわけにはいかない。メイは、24時間後の自分の身の安全を真剣に考えた。

「じゃあ、隣の部屋を片付けるから、その対価としてベッド代を出して」

そうなのだ。2階には、ルースが寝室に使っているこの部屋のほかに、もう一つ部屋がある。だからこそ、「住み込み可」と銘打って、売り子を募集できるのである。

ただ、メイの直前に、売り子として働いていたおばさんは、通いで来ていたから、その部屋は、片付けられない症候群のルースの荷物置きへと、あっという間に変貌を遂げたのだった。

「あの部屋のどこかにベッドが隠れている」

「ええ!?」

「前に住み込みで来てた奴らの」

「ベッドが見えないくらい、よく詰め込んだね!」

「へへっ」
「褒めてないいぃ!!」


唇に残る生々しい肌触りを払拭するべく、メイが必死で片づけに励んだことは言うまでもない。