トントン

朦朧としていた意識が、かすかに戻る。


ドンドンドン

「…ん?」

その音が、店の方からだと気がついたメイは、思わずルースの胸を思い切り押し返していた。

「お客さんかも!」


ちっ。

舌打ちしたルースに「放っておけ」と言われたにもかかわらず、メイは店の入り口のドアまで駆けつけてしまった。

「はい?」

恐る恐るドアから顔を覗かせると、ほっとしたようにため息をつく女の人。

「ああ、よかった!とうとう閉店したのかと思って」

『とうとう』と言われてしまうあたり、近頃の店の様子はどんなふうだったのかと不安がよぎったものの、メイは気を取り直して答えた。
「いいえ!ただ、定休日を作ることになっただけなんです」

そう言うと、みるみるうちに女性の表情が曇った。

「本当に、今日は定休日なんですか!?」

ちらりと彼女が投げかけた視線の先の壁には、「定休日」と書きなぐった紙が貼られていた。

はあ。それじゃただの落書きだと思われるよ。

メイは、いかにもルースらしい無造作さに、呆れつつも微笑ましい気持ちになった。

「そうですけど、まあ、初めてのことで、変な感じですよね」

そう言うと、女性は、首を横に振って続けた。

「いえ、定休日はあってもいいんですけど、今日は、困るんです」

「え?」


「今日、私と夫の結婚記念日で。ケーキを買いたかったんです」

「ああ!」
「そんな素敵なことなら…」

協力してあげたい、とメイは思う。

「ああ、でも…」

そういえば、ルースはホールのケーキを焼くのだけは極端に嫌がったっけ。メイが勝手に注文を受け付けて、断りきれなかったものだけを渋々作っていたものだ。

それでも、評判がとてもよかったから、定番商品にしてくれればいいと、常々思っていたところだった。

「無理かも…」

「そこを、なんとか!」

見かけによらず、押しの強い女性に、メイはちょっと驚いた。


「あ、その、私たち、ここのお菓子が縁で、結婚することができたので…」


気圧されたメイの様子に、遠慮がちに彼女が続けた言葉を聞いたら、メイはもういてもたってもいられなくなった。



バン!
勢いよく厨房へのドアを開けて、拗ねたようにテーブルにだらしなく倒れているルースに言った。

「ルース!ホールのケーキ一つだけ焼いて!お願い!」

「やだ」

「はあ!?即答!?お願いだから!」

「ぜってーやだ」

明日もお休みにしてもいいから、あたしも手伝うから、または、ポタージュスープ作ってあげるから、だとか、様々にメイはルースに語りかけるのに、頑固にそっぽを向いたままだった。


「どうして?いつも以上におかしいんだけど何?」

さすがにもう言うこともなくなってしまって、メイが途方に暮れてぽつりと言った。

「お前のせいだろ」

「あたし?」

「胸に手を当てて考えてみろ」



「……ぺちゃパイだからか?」
思わず独り言を漏らしたら、ルースがくっと笑いを噛み殺したのが聞こえて、メイは真っ赤になった。しまった、聞かれた!


「ちがうわ、バカ」

メイは、いい雰囲気だったのをぶち壊して飛び出したことなど、全く気に留めていなかった。

「もー、あたしバカでいいや。だから、ケーキひとつ」

「ああん?」

これまたしつこいメイに、ルースが眉をひそめたが。

「ルースのおかげで結婚できたんだって!結婚記念日なんだって!絶対焼いて、お願い」


畳み掛けるようにそう言うと、彼がはっとしてわずかに目を見開いたことを、メイは見逃さなかった。


「ね?いいでしょ?」

ルースは、心が動いたことを隠すかのように、そっぽを向いた。
あは。可愛い人だな、歳上なのに。

本当に、チョコレートの効果で、思いを実らせたカップルがいるって知って、嬉しいくせに。メイは心の中だけでそう思った。

が、やはりルースはルース。ただ微笑ましいだけの存在でいるはずはない。



「ごほうびは?」


「……はい?」

メイがうろたえるのをよそに、ルースはにわかに上機嫌になったかと思うと、ダラダラしているように見えて、意外に手際よく、道具や材料を揃えていく。

「その、ごほうびとか、別にいらなくない?仕事でしょ」

そう正論をぶつけてみるものの。

「今日は休日だ」

「……はい」

「休日返上で働いたら、世間では手当が出るだろう」

「じゃあ、スープにステーキもつけ」

「食いもんは好きじゃない」


「ええっと……」
メイが思い悩んでいる間にも、ルースが着実に作業を進めていくから、とりあえずメイは、女性客に午後に商品を取りに来て欲しいと伝えに行った。


その時ふと、思い出した。


あまりに印象が違っていたからわからなかったけれど、彼女は、店頭でマーリンと大喧嘩をした常連客だったのだ。

化粧が濃く、服装も手足が丸見えの色っぽい格好だったのに、今はメイクしているかどうかもわからないほどで、服装もゆったりとしたワンピースだけだ。



「もしかして…」

思わずこぼしたメイの言葉を拾い上げるように、彼女は「ええ」と続けた。

「お腹には、赤ちゃんがいます」

その笑顔は穏やかで、メイは思わず涙ぐんでいた。

「お、おめでとうございます!!結婚も、あかちゃんも!素敵!ケーキ、絶対に作らせますから!!」

くすくすと笑う彼女は、心底幸せそうで、メイはルースのお菓子がどれほど客に愛されているのかがよくわかった気がした。



「…なんだよ?なんで泣いてんだ?」
丁寧に『定休日』の紙を書き直して厨房に戻っても、まだ泣いた形跡が消えなかったらしく、メイは困った。

「うーん、嬉しいから、かな」

「休み返上して、何が嬉しいんだよ、バカ」


ケーキ型を、オーブンに放り込むルースの背中を見つめながら、バカでいい、とメイは思う。

「だって、ルースのお菓子のおかげで結婚した人がいるんだよ。その上、赤ちゃんにも恵まれたんだって」

「ん」

「あたしもね、ママが死んだ悲しさが、ルースのマドレーヌのおかげで消化できた」

「あぁ」


「ルースのお菓子は、みんなを幸せにするね」


まだ赤みの残る目を柔らかく細めて、メイが微笑んだ。時々母親みたいな顔をするな、とルースは思う。自分の身の回りに限って言うなら、母親らしい人間はいなかったけれど、世間ではこんな表情を浮かべるのが母親なんじゃないかと推測する。

わがままを言っても、おかしなことをしても、許してくれるんじゃないかと、思ってしまう。


「でも、俺自身は幸せになれねーな」

だから、つい。

意地悪を言ってみたり、したくなるのだ。
「えっ」

ふと、ルースが寝言で『母さん』と呟いたときの頼りない声を思い出して、メイは動揺した。

お客さんも、あたし自身も、こんなに幸せなのに、ルースだけが幸せじゃないってどういうわけだろう。


「だって、奥さんがご褒美くれねーし」

「はっ!?」


まだそこ、こだわるの!?と呆気にとられた。

でもそれは一瞬のことで、さっきは拒否したはずの『奥さん』という単語を聞くことができたことに気がついて、メイはあっという間に嬉しくなってしまった。




「じゃあ、あたしがルースの赤ちゃんを産む!!」




ぶっ。ごほっ。

咽せたルースが、困ったようにちらりとメイを振り返った。

「計算なしで翻弄してくるからタチが悪いな、お前は」

「へっ?翻弄!?」

「抱かせてくれるって意味だろ、さっきの発言」

「うええええ!?」

「うるせえ!押し倒すぞ」

もごもごと自分の口を抑えながら、メイは慌てて厨房を出て店でラッピングの準備をし始めた。



淡いピンクのリボンを選んで、ふと思う。

初めて見た時には、まるで廃屋のように荒れていた店。

少しずつ手を加えたものの、まだ考えあぐねていたものがある。それは、店名だ。

リボンや看板に、店名があったら素敵だと思う。


さすがにルースの承諾なく勝手に命名するわけにも行かず、「洋菓子店」としか書かれていなかった看板も、今なら書き換えてもいいかもしれない。

例えば、幸せを呼ぶ洋菓子店、とか?

いやいや、絶対ルースは反対するだろうな。


一人言を言いながら、メイはその様子を思い浮かべておかしくなった。



「焼き上がるまでの間に、ご褒美の一部をもらおうか」

「ぎゃっ」



いつの間にか背後に立っていたルースに抱きつかれて、メイは心臓が止まるかと思った。

「もうちょっと色気のある声出せよ」

呆れながらもルースは、メイの顎を持ち上げて、覆いかぶさるように、キスをした。


大体、ホールのケーキなんて、平和な家庭の象徴で、面白くないと、ルースは常々思っていた。

だけど、渋々焼いてみて、今日はふと「悪くない」とひとりごちていた。あぶねー、脳内の思考がダダ漏れのメイに影響されてる、とも思う。

そして、そのメイの口から、やはり自覚なく漏れたネーミング、「幸せを呼ぶ洋菓子店」なんか、マジねーな、だっせー、と心底思っているのだ。

それなのに、メイがそう感じているということが照れくさくも嬉しく、そのことを彼女に気取られないようにと何度も口付ける。


早くぼーっとして訳わかんなくなればいい。




そしてそのルースの意図のとおり、メイはうっとりと目を閉じたままだ。

やっぱり、ここは「幸せを呼ぶ洋菓子店」だ、と思いながら。










           完