窓から、はっきりと眩しい太陽の光が差し込んでいた。


「寝たら腹減ったな」

結局、あのままで、厨房の床にふたりでゴロゴロしながら、いつの間にか本格的に眠ってしまったらしい。

ルースがそう言いながら、煙草に火を点けたから、メイは少し驚いた。

「珍しいね?」

放っておくと、ほとんど物を食べないひとだったのに。ずいぶん健康になったんだと思っただけなのに。

「口うるさい売り子がしつこく食わせたアレ」

いろいろと余計な表現が含まれた台詞を吐き出すルース。

「は?」

失礼な、とメイが睨んだら、「何、上目遣い?誘ってんの?」とまた訳のわからないことを言う。

「アレって何?」

めげずに意味不明なルースの発言を解読しようとメイは尋ねる。

「アレ食いたい」

「アレって?」

食べさせたものは、自分が調理したものばかりだから、メイは勢いづく。
「野菜がやたら入って」
「うん」

「どろどろで」
「うん?」

次第に怪しい表現になっていくその料理。

「ぐっちゃぐちゃのやつ」

はあ、とメイはため息を吐いて、「ポタージュスープ」と呟いた。どうしてそこまで不味そうな表現になるんだ、とメイが不満に思ったとき。


「アレ、美味い」


ふいにそう言われて、予想外だったメイは少し浮かれたのだと思う。

「材料あるかな」

そう呟いて冷蔵庫に向かってすっくと立ち上がったが「いたっ!」と悲鳴を上げた。指の骨が折れてるかもしれないんだった、とメイは思い出す。


「バーカ」

ルースがくすりと笑うから、ムッとしたメイは文句を言うつもりだった。


「もう無理すんな」


そう言ってルースが抱き上げるから、文句は消え失せた。


「一人で頑張るのはやめろ」

無理なんかしていないと、頑張ってなどいないと、言い返そうと思うのに、ルースの目にからかいの色がなくて、メイは何も言えなくなったのだった。


「お前はもうひとりじゃないだろ」

どこかすねたような顔なのに、それはなぜかメイの胸を熱くする。

それがモロにバレてしまいそうな格好が恥ずかしくなって、じたばたして下ろしてもらう。



「それは、つまり、これからもここにいていいってことだと思っていいの?」

ルースにとって害になると感じたことも、1年近く留守にしてしまって迷惑をかけたことも、全部忘れて元通りの暮らしをしてもいいということなのだろうとメイは考えた。



「いいや」

だからこそ、このルースの答えには、頭を殴られたかのような衝撃があった。

「じゃなくてさ」

ここにいていいってことじゃなきゃなんなんだ、とメイはぶつぶつとツッこむものの、すっかり元気がなくなってしまった。

「ここにいなければならないってこと」

……ん?

メイが首をかしげるのも無理はない。

「そこは、『いてもいい』ってことにしてくれればよかったじゃん。いちゃいけないのかと思って、びっくりしたんだけど!」

次第にむっとしてきたメイは、言い返した。

「違うし。俺のそばにいないといけないんだよ、お前は」

…その言い換えには、ちょっぴりどきりとしたメイだけれど、やっぱりいまいち腑に落ちないと思う。

「そういう気持ちでいてくれるってことだね?」

まだドキドキしながら、メイはそう確認する。

すると、今度はルースがやや苛立ってきた様子で、言葉を吐き出す。


「住所がここにあるんだ」
「……は?」

メイには、住所を移した記憶はない。

「本籍も」
「……はあ?」

いよいよ訳がわからない。













「ついでに、俺の籍に入ってる」






「……え…?」







ますます、メイの頭は混乱してきた。


「だから、婚姻届を出した」



「はああああああ!?」

めまいを覚えて、ふらっとしたメイは、思わず床に両手をついた。

「けけけけ、結婚したってこと!?あたしと、ルースが!?」

「お前、俺のこと好きだって言ってたし」

だからって、勝手に婚姻届を出したりするか?と思うが、ルースの奇行は、どのみち自分には理解ができないのだった、とメイは思い出す。

「公文書偽造だよ...」

呆れ果ててぽかん開いたままのメイの口を、遠慮もなくむぎゅっと指でつまんで閉じながら、ルースはくつくつと笑いを噛み殺している。


「っていうか、そんな大事なこと、一人でやってのけるなんて」

「あ?」

「だって、プロポーズとか、して欲しかった」
「…ん、腹減った、なぁ」

白々しく頭をぐしゃぐしゃ掻きながら、ルースが冷蔵庫を開けに行く。

「ちぇ。どうせそんなことでしょうよ。ルースなんかまともじゃないし。あたしの望み通りの言葉なんか絶対言ってくれないもん」

ぶつぶつと文句を言うメイにも、聞く耳を持たずにルースは「マジで割チョコしかねえな、はは」なんて下手なごまかし方をするだけだった。

「それなら普通に捜索願とか出してくれればよかったじゃん」

「あんなもん他人が出したって、大した対応してくれなさそうだろ」

「それも、ルースの勝手な思い込みって気がするし」

「まあ、気にすんな。お前が、この世のどこに現れても逃がさないようにさ、そのための、いわゆる手段だろ?」

チラリと一瞬目を向けたルースに、「気にしない人がいたらおかしいよ!」と言い返しながらも、メイはどこかで「ま、いっか」と思い始めてはいた。
「ルースはストーカー気質だね…」

「悪魔はそれが普通だろ。気に入った女にはつきまとって、隙があれば拐うし、監禁する」

「それは怖いねー…」

「お前も1回は拐われてるだろ」

「はっ!?」

「1年近くも監禁されたし」

ルーファスのことだ…。

メイは、呆然としながらも、そこには思い当至った。

この町に帰ってきてみれば、そういうことになるのだ。

「そうやって絶対に自分のものにする」

「そうなの」

知らないことだらけだ。メイはそう思った。


「だから、べべが悪魔の城の方へ飛んだ時には、もうダメかと思った」


ぽつりと呟くその声は、頼りなくて、ずいぶん前に寝言で「母さん」と呼んだその声を思い起こさせた。

「でも、諦めないで森まで探しに来てくれたんだね」

無気力で、いい加減で、だらしなくて、来るものは拒まず、去る者は追わず、やることなすこと支離滅裂で、メイの予想に反することしかしない人だったのに。


「ありがとう、ルース」


こらえきれずにわずかに浮かんだ涙がこぼれないように注意しながら、メイはにっこりと笑った。



「好き、だから」



にわかにたどたどしい言葉が、鼓膜を震わせ、メイの心を打った。

でも、「探してくれたんだね」の後すぐに言ってくれたらよかったのになぁ。メイはそう思った。


「う、わっ」
その次の瞬間にはメイはもう、ぎゅうぎゅうと、ルースの胴に腕を回してしがみついてしまっていた。
確かに、森で再会した時には、ひどい物言いだったはずなのだ。

メイが過干渉で生活をかき乱した上に失踪するなんて、腹が立ったから探した、と言ったのだから。

それを、必死になって、「好きだから探した」と言うように強要したのはメイだった。

もう自分を探した理由を言わせようなんて無謀なことは思ってもみなかったのに、不器用で、ややタイミングを逃したにも関わらず、迷った挙句に言ってみた、という体なのがまたメイの心のツボを押した。


「あたしの方がうんと大好きだからね!ルース」


「う」

「何その変な相槌。ルース?大好き」

「あ」

「大好きだよ」


胸がどっきんどっきんとうるさい。幸せな気持ちで、胸がいっぱいなのに、涙が出そうって、変なの。
とうとう変な答えも返さなくなったルースの顔は真っ赤で、メイは本当はこういう人のことを「奥手」って言うんじゃないのかなぁ、と思う。

もっと好きになってしまいそう。

そんな気持ちで、珍しく長時間交わる視線を外せずにいた。





「メイ…」


呆然としたような声に、はっと店に通じるドアを見ると、ソールの姿があった。


「ソール!」

彼の様子も、なんだか記憶の中とは印象が違って見えて、メイは1年以上店を留守にしたのだということを、再度認識することになった。

「無事でなによりなんだけど…、なんか、ごめん」

言いにくそうに頬を染めながら、ソールが視線を泳がせるから、「うわぁ!」と言いながらメイはルースから離れた。
「いやいやいや、あたしこそ、ごめんね?随分長い間、出かけちゃって」

あたふたと赤い顔で、メイは何もなかったかのように取り繕う努力をする。


「その、ほんとに、いろいろ、ごめ」
「こいつ、俺の嫁になったから」


……。

朝の爽やかな空気は、雰囲気を全く読まない男のせいで、澱んだ。

「ちょっとぉ!今そんなタイミングだった!?」

メイは、何となくではあるけれど、仕事中にあれこれ助けてくれて、生まれて初めてデートに連れ出してくれたソールが、自分に対して好意を持ってくれていることに気づいていた。

叶わないと思っていたルースへの恋が実ったなら、ソールの気持ちには応えられないのだから、そこも含めての「ごめん」を言うつもりだったのに。


「言いたい時に言いたいことを言えばいいんだ」

素知らぬ顔で、何やら厨房で準備を始めるルースに、メイはやっぱり頭を抱えた。
ダメだ、やっぱりこの人を100パーセント理解するのは無理だ。


「気にしなくていいよ。俺も彼女がいるんだ」

苦笑いしながら、ソールがそう告げた。

「そう!そっか、そうなんだ。おめでと!よかったね」

メイは、色々汲み取ってくれたソールにホッとするのと同時に、なんだか自分まで幸せな気持ちが膨らんできて、笑みが浮かぶ。


「メイもよく知ってる子だよ」

「えっ!?」

ダイナ、いや、ニコラかも、もしかしたら、ナターシャってこともあるかもしれない、なんてメイがブツブツ言いだしたから、ソールは今度こそ声を立てて笑った。

「君の親友だよ」

メイが、みるみるうちに驚きを顔中に広げる。
「マーリン!!」


彼女は、あれきり店に姿を見せなかった。

だけど、メイはこれまで一緒に過ごした時間を信じて、ルースを好きだと自覚したときには、すぐに手紙でそれを打ち明けたのだった。

“なかなか落とすには骨の折れる人。頑張ってね”

なんて、大人な一言で容認してくれた親友。


「どうして?いつの間に?」

メイが不思議そうに首をかしげるから、ソールは微笑んだ。

「メイのおかげだよ」

「え?」

「連絡が取れなくなったメイを心配して、彼女は何度もここに来たし、俺と一緒に探したりもしたんだ」

「ありがとう…」

それは、申し訳なくもあるけれど、メイにとって心温まる情景だった。自分を探してくれる、大切な友達二人。その二人が、恋人同士になったなんて。
「あたし、すぐマーリンにも手紙書くね」

もちろん、冷やかしの一文も書いちゃおう、とメイがウキウキし始めたとき。


「メイが店番してる時、どんな男が来た?」


「は?」

意味不明で、脈絡のない一言が、メイのウキウキを台無しにする。眉根を寄せて、メイはそれまで大人しくしていたルースの方を振り返った。

ルースは彼女の視線など全く気付かないような顔で、ちらりと弟を見ただけだ。


「…なんで?」

おそらく、メイよりもっとルースの言動に慣れているはずのソールも、不思議そうだ。

「狙われてるって聞いた」

ぼそりとつぶやいたその単語で、メイが思い出したのはルイーザの奇妙な手紙だった。

“店に来る男の半数には警戒をするように。
本人もあんたも無自覚だけど、色んな意味で狙われてる“

暗号のような文面。
「ああ、うん」

苦く曖昧に笑うソールに、「早く言え」と促すルース。

「男女問わずメイと話したくてくる客が多いよ。その中で『狙われてる』って表現から、考えてみると、大まかにはケソウしてる奴と、転職の勧誘に来る奴との2タイプに分かれるかな。俺はその両方だったけどね」

「転職はわかるんだけど、ケショウって何。そんな濃い化粧した人来るっけ?」

首をかしげるメイには、仕事の誘いには覚えがあるということだ。

「……さあな」

懸想、という単語が浮かばないらしいメイに、ルースはあえて答えを用意しない。


「ソール、もう帰れ」


「はあ!?」

メイも驚いたけど、ソールもびっくり顔だ。
だって、陽は上りつつあるし、通常よりも店の開店準備が遅れていることは明白なのだから。ソールが帰ってしまったら、困るはずだ。

ルースの突然の一言に、二人は思わず顔を見合わせたままだ。

その息の合った様子に、わずかに苛立つ自分を認めて、ルースは戸惑いながら、こう漏らした。


「今日は定休日だから、帰れ」


以前、「定休日なんかいらねー」と言わんばかりだったルースが、そんなことを言い出すなんて、とメイとソールはますます困惑する。



「だから、邪魔すんな、ソール」

「へ」



メイとソールの胸に迫る万感の思いなど完全に無視したルースの一言に、ソールはやや慌てながらも、「わかった」と言って店を出て行き、メイはそれにも驚いて、一層オタオタし始めた。

「ちょ、そんな言い方!っていうか、…それ、邪魔って」

「うるせーな。今すぐ押し倒したりしねーよ」

「なっ」

「メイちゃんは何考えてんだかなぁ、やーらし」

「ちっ、違うから!!」

「はいはい」

赤く染まった頬をぷうっと膨らませてしまったメイに、ルースは笑いながら、ボウルの中身を見せた。

「ん?なあに?チョコの塊?」

「溶かすといいんだけど、時間ねえな。お前、朝からガツガツ食うし、腹減ってんだろ」

「ちょ、なんか失礼だったよ、表現が」

「マドレーヌでも焼いてやろうかと思ったけど、ムカついたからやめる」

「は!?嘘!?なんでムカついた!?あたし、マドレーヌ食べるチャンス逃したの!?」

ソールが来るまでは、なんだか恋人のような甘い雰囲気だったはずなのに、どこでどうムカつかれることになったのか、全くもってわからない。

「やだな、やっぱりうるさいから?どうやったらしっとりとおしとやかな女の子になれるんだろう…」

確かにぶつぶつとうるさいメイに、ルースはちょっと笑った。単純に、メイを目当てに来る客が何人もいるという事実に腹が立っただけなのに、ちっとも自覚がなくて、彼女らしいと思う。


きゅるるるるるる……。



「はっ」

メイが、息を飲んで赤面した。

「食いしん坊ちゃん」

今度こそけたけた笑いながら、ルースがメイの口に何か持ってくる。

初対面の時には、幽霊と間違えるほどだった鬱陶しい髪の毛が短くなり、その顔立ちや表情がよく読み取れて、メイはドキドキする。

そんな綺麗な笑顔ができるなんて、知らなかった。

ついつい見蕩れて反射的に口を開いたけど、ルースの指が唇に届く直前に、強い酸味のグミのことを思い出した。

「ん!」

慌ててぎゅっと口を閉じたメイに、ルースはくすくす笑いながら、指で唇を無理矢理開く。

嫌だと言わんばかりに首を横に振るメイは、彼の触れた唇がなんだか熱を帯びてる気がして、さらに心音がビートアップしてしまう。

「腹減ってんだろーが。食え。また虫が鳴くぞ」

赤い顔のままで、むっとしつつも、メイはカカオの香りに気がついて、ぱくりとその塊に食いついた。

その時に、ちゅっと唇がルースの指を食んだから、今度はルースがごくりと息を飲む羽目になった。


「お前、わざとやった?」

「ん?何を?へえ、舌触りはちょっとカサカサしてたけど、溶けるとやっぱりおいしいね?」

完全に無自覚なメイに、ルースは小さなため息をついたものの、気を取り直した。

「お前、あんまりチョコレート好きじゃないんだろ」

「ううん、好きだけど?」

メイが首をかしげる。

「そのわりには、作れって騒いだことないだろ」

「だって、ルースのマドレーヌがもっと好きだから」

ルースはじっとメイを見つめた。さっきの連呼のせいか、やけにその声で「好き」と言われると心臓に響く。

「…その割には、お前がマドレーヌ食ってるとこ1回しか見てねーけど」

ルースは苦笑いを浮かべた。

「だって、毎日売り切れるから」

「...マジか」

「マジです。大人気になりすぎて、売り子にまで回ってきませんよ、職人さん」

ち、なんだそのしゃべり方、とルースが毒づいたが、わずかに頬が染まっていて、照れているのがメイにはわかった。

「お前にとっては値段が高すぎるからかと思ってた」

初めてメイが食べた日に、1個で1万ポンドなんてふっかけたことは確かだ。

自分でもそう思ってたの?と言って、メイはけらけら笑い出した。

「それもあるよ?全然借金返せてないし」

そんな法外な値段、誰が真に受けるんだよ、とルースは内心秘かに呆れる。

「1万ポンドからはまけてやれないからな?」

口ではそう言ってみたものの、ただメイの反応を楽しむだけのつもりだったのに。

「うん。約束通り返すから」

そうあっさり答えて、メイはすっかり曇ってしまっているガラスを拭き始める。

だから、ルースは黙っていられなくなった。

「...ただし、1個で、って言う部分は嘘だ」
「ええっ!?」

案の定、こちらに向き直るメイに、ルースはほくそ笑む。初めての定休日なのだから、店のことは放り出して欲しいと思う。

「な、な!何個で!?」

早くも興奮気味なメイ。

「何個がいいんだよ?」

その様子に、笑ったルースの表情が柔らかくて、メイはさらに変に興奮してきた。

「じゅっ」
「はぁ?」

上手くしゃべれない、いや思った通りのことを口にして、調子に乗んなと怒られる可能性もある。

「じゅっこ、とか。や、希望だけどね!」

慌てて付け加えるメイ。



「バカ」

どれだけ欲がないんだと、ルースは呆れる。

自分の体調をうるさいくらいに案じて、口だけじゃなくて手も出してくれたメイを、「何が目的だ」と問い詰めた日のことを思い出す。


「あー、ごめん。欲張っちゃった」

えへへ、と笑うメイは、バカだけどなんて可愛いんだろうと思ってしまって、ルースは困った。

「その反対だ。欲がなさすぎてバカ」

「どっちにしたってバカなんじゃん!」

むう、と膨れたものの、メイはすぐに気持ちを切り替えた。

「じゃあ何、もっといっぱい食べていいってこと?100個とか?」

あはは、と想像してるだけで楽しくなったようにメイが笑う。


ずっと、そんな顔で笑って欲しい。


自分が意地を張っている期間に、メイがみるみるうちに萎れるごとく笑顔を消していったことが、ルースは忘れられない。

自分の言動がそれほどメイに影響を与えることが、驚きでもあり、屈折した喜びでもあった。


「そんなもんか?俺の嫁になったくせに、100個食うくらいで満足か?」

「え?」

手持ち無沙汰のように、ボウルの中のチョコレートの塊を、ことんことんと持ち上げては落としながら、ルースは呟いた。

表現は意地悪だけど、「俺の嫁」と言われて、メイはぼうっとしてしまう。



「一生食え。俺と死に別れるまで」



言いたくなさそうにそう囁くルースの目は、メイの方など見てもくれない。

だけど、メイには、熱烈なプロポーズのように聞こえた。


「いいの?あたし、調子に乗っていっぱい食べるよ?」

そこは自信がある。もともと食いしん坊だし、ルースのマドレーヌなら、いくら食べても飽きないはずだ。

メイは、わずかに目に浮かぶ涙を払うように、瞬きした。




「家族になっただろ」



涙が出そうなことを隠そうとしているところだったのに、どうしてそう言う一言をくれちゃうんだ、とメイは思う。

しかも、なんでこっちをちゃんと見てたりするのかな。いつもはそっぽ向いてるくせに。


困惑気味にメイを捉える彼の瞳には、不思議と濁りがないことを、メイはずっと前から知っていた。



「うん。家族になったね」



涙ぐみながらも、ふわりと花が咲くような微笑みを浮かべたメイに、ルースは目を奪われた。

「...なんだ、そんなに嬉しいのか」

どきりとうずく心臓をなだめるために、ルースは視線を外す。

「うん、あたし、家族がどんどん減るばかりだったからね」

メイの父親は、9年前に町までのやや危険な最短ルートの間で、谷に落ちて死んだ。母親も、昨年病気で死んだ。

落ち着いたその声に、もう悲しみはないけれど、ルースは少ない家族に十分に愛されたのであろう幼いメイを思う。

それに引きかえ、俺は。

「俺なんか無駄に増えたぞ」

いかにもげんなりした様子でぽつりとこぼすから、メイは思わず笑ってしまう。

「個性的な家族があちこちにいて、楽しいね」

同じ街に住む、実父のローランド、戸籍上の母のセルマ、その連れ子ソール。悪魔の城にいる、実母のルイーザ、そのパートナーである王、彼らの息子ルーファス。


楽しいはずねーし、と言おうとした先に、メイがにこにこしながらこう続けた。

「いいなぁ、兄弟が多くて」

「アホか。どっちも邪魔しかしねーし」

親は放っておけばいいと思う年齢になったけれど、兄弟はそうもいかない。

「ん?」

「お前にちょっかいばっかかけてんだろ」

「へっ?あ、そういうこともあったかな?」

むしろ向こうから、こちらをかき乱してくるのだから。ルースがそう思っているのとは対照的に、メイの方は済んだことはすぐに忘れてしまうらしい。



「でも、まだ増やせるな」

「ん?」

「家族を増やす方法がある」


……。

メイは、真面目ぶったルースの顔つきに、一層困惑することになる。

「あ、ああ、まだ増える可能性があるんだ?」

ルイーザさんの再婚か?いや、ソールとマーリンが結婚するとか?ぶつぶつ言いながらも、メイは、他人が首を突っ込んではいけないと思い、あえて尋ねないでおこうと思った。

「他にもあるだろーが、バカ」

「む」

なのにその配慮も虚しく、またバカ呼ばわりされることになる。


「うぅーん…」

何をどう聞けばいいのか思案しながらようやく口を開いたのに、ルースは、あっと言う間に、メイを引き寄せてキスをした。


「お前がさっさと色んなことに『慣れ』ればいいんだろ」


閉じていた目を開けたら、メイが目を見開いたままで茹で上がっていた。メイは、自分が昨日言った台詞や、背伸びしてしたキスを思い出して、恥ずかしくてしょうがなかったのだ。

ルースは、そんなわかりやすいメイの様子が嬉しく、思わず上機嫌になってしまった。



「籍を入れた以上、子を望むのは当たり前のことだろ、奥さん?」


予想外にまじまじとメイが見つめ返してきたから、ルースは慌てて口をつぐむ。


「もう一回言って?」

なのに、気にすることなくメイはルースに詰め寄った。

「あ?」

どう誤魔化そうかと思案するルースをよそに、メイはきらきらした瞳で、その顔を覗き込む。

「今の台詞、もう一回聞きたい」

子どもが親に甘えるように、長身のルースに向かってぴょんと跳ねるメイは、自分がルースの腰に腕を回していることにも気付いていない。

しかし、いくら幼く見えるとはいえ、メイも19歳なのだから、完全に子供でもない。


「…急に甘えんなよ、珍しすぎて調子狂う」

無垢な表情とは対照的に、密着した体のその柔らかさに、ルースは心底戸惑った。

「あ、甘えてなんかないもん。あたしルースの『奥さん』なのかぁ、って思っただけ。もう一回、ルースの声で聞きたいな」

その上気した顔に、恥ずかしそうな仕草に、ルースは自分の胸が疼くのを感じた。

「バカだな、相変わらず」

「ええっ!?」

「勝手に籍入れられたのに、怒るくらいしろよ」

「はぁ!?」

勇気を出してねだったのに、答えがそれかと言いかけたメイは、やや視線をずらしたルースが照れているということに、ようやく気付いた。



「わかった。今日は我慢する。そのうちまた聞けるといいな」

くすりと笑うメイの笑みは、まるで母親のようだった。

「『旦那さん』のご機嫌が良くなったときがチャンスだね」

ルースは、今度こそ照れ隠しの意地悪が言えなくなった。

「ね、旦那さん?」

そう言ってにこにこと下から顔を覗き込まれたら、どうしようもなくなって、ルースはぎゅうっときつめにメイを抱きしめた。

「ひゃあー……。ふふー。恥ずかしくて緊張するのに、心地いい」

はぁ、とメイが耳元で、熱い息を吐く。




「…もういっか」


ぽつりとルースが言ったのは、独り言に近いものだった。

キスで我慢すると言ったのは、つい昨夜のこと。

でももう無理だな。ルースはそう感じた。


「なに?...んぅ、っ」

ふいに零れる声に、メイは慌てて口を閉じた。頭の中が痺れてくる。

くすぐったいような、独特の感覚に、メイは肩をすくめる。

「や、何してるの」

首元に隠れるように顔を埋めたルースが、何かいたずらをしてるのかと思ったメイ。

「まあ、キスとか、色々」
「へっ」

そう言えば、ちゅうちゅう音がするし、なんだか背中がゾクゾクもする。けど、色々ってなんだ?

「あ、っ」

メイは、ルースがよく見えない上に、慣れない刺激が続いて、困惑する。何が起こっているのか見ようとして、ルースを引き剥がす。


「い、色々って何したの?」

ごく近いところで、ルースの顔を覗き込む羽目になり、メイは思った以上にドキドキすることになる。

きらりと光を反す瞳は、いつもの無気力で、何を考えてるのかわからない印象が消えていた。


「撫でたり」

全く視線を逸らさないままで、ルースがするするとメイの右耳に触れる。

は、と勝手に漏れた呼吸をメイが飲み込もうとしたとき、もう一方の手が、背中を撫で上げたから、それもできなくなった。

「や、なんか、お、かしい」

撫でられたら、こんな風になっちゃうものなんだろうか?

派手な心音にも、不規則な呼吸にも困るけど、この寒気に似た痺れが、一番訳がわからない。

「おかしくねーよ」

くっ、とルースが笑うと、メイにはいつもと変わらない顔になったように見えた。



「それから、あと、舐めたりもしてた」

ふいにさっきのように、笑いを引っ込めて、伏し目になったルースに、メイはどきりとした。


やだ…、あたし、キスされるかと思った。


その表情と自分に近付く角度がよく似ていて、そんな発想をしたことに照れていたから、メイはそのさきの理解が遅れた。



「ぅ、んっ」

首筋をすうっと上がっていく湿っぽい感触。左耳に届いたそれは、チュッと言う音を伴った。

「な、なに?」

寒気が尋常じゃない、とメイは身を震わせる。寒くないのに、いやむしろ、暑いくらいなのに、あたしの体には何が起きてるんだろう。


「旦那らしいことでもしようかと」

メイの戸惑いで泳ぐ目は愛らしい。

一方で、上気した頬や、かすかに開かれたふっくらした唇から漏れるため息、どうしようもない様子で自分の服の胸の辺りを掴む小さな手は、ルースの欲を煽るばかりなように思えた。


さすがに、手が背中からお尻に下りてきた時には、メイも危険な状況だと気が付いた。

「ちょっと、変なとこ触らないでよ!」

ようやく距離をとろうと腕をつっぱったけど、片手の手首を捕まれた。

「いや、無理。そんなイライラすんな。」

なんの迷いもなくそう言い返して、なぜかルースはチョコの塊をまたメイの口に持ってくる。


「甘いもん食って落ち着け」

うん。まあ、チョコは美味しかった、確かに。

素直にあーんと口を開けるメイに、わざと奥まで指を突っ込んでやるルース。

指の温度でチョコが溶けちゃったのかなぁと考えながら、メイが何のためらいもなく舌で指を舐めとるから、ルースはごくりと生唾を飲んだ。

「…お前は真正のバカだな」

「む!?」

塊が意外に大きくて口をモゴモゴしながら、メイはルースを睨んだけど、彼が目を伏せたから、性懲りもなくどきりとしてしまった。

でも、今度こそ、ルースはメイにキスをした。離れ際にちゅ、と音がなるような、しっかり唇が合わさるキス。

ちゅ、ちゅ、と繰り返されるキスの合間に、ルースは低い声で何度も「メイ」と呼んだ。
それが珍しいことだと、メイもわかっていた。

名前を呼ぶより、お前とかガキとか、バカ呼ばわりすることの方が多いのだから。今日だって、目覚めてから何度バカと呼ばれたのか数え切れやしない。

だから、そのうちには、「メイ」って声が「好きだ」と言っているような錯覚に陥り、メイは浮かれた後、うっとりしていた。

「んっ」


だから、唇を割って舌が滑り込んでも、されるがままになってしまった。


食べかけだったチョコレートは、ルースが食べたのかメイが食べたのか、もはやわからない。

ルースの舌は、次第にとろとろと溶けていくそれを、味わっているのか、塊が完全になくなるまで、唇が離れることはなかった。

その間も、メイの耳には、撫でられた感触と、名前を呼ぶ声やその息の熱さが残ったままだ。

髪の毛の中に差し入れられた指は、愛しげに背中を撫でる指は、どちらも、怠そうに菓子を作っていたあの細く長い指と同じものなんだろうか。


「...はぁ、...ぁ」

ルースがようやく唇を解放すると、まるで走ってきたみたいに息が上がっていて、メイは一層恥ずかしくなって、慌てて口をつぐむ。

やだなぁ、変な人だ、あたし。


「苦いんだな、チョコって」

「ええ?」

こんな風にさせておいて、不思議そうに味の感想を述べるルースの神経は、やはり理解できないとメイは思う。

「甘いでしょ」

「記憶の中より苦い」

「記憶って…、そういえば、普段、自分ではチョコ食べてないもんね?久しぶりだったんだ」

「ん」

「とっても美味しいのに、どうして食べなかったの?」

何気なさを装ったのに、答えを探っている様子のルースに、メイが少し後悔し始めた頃。


「面倒くさい存在だから」


「…なにそれ」

やっぱり理解不能。

はあ、とため息をこぼして、ルースは続けた。

「この店のチョコレートに関して言えば、作らせるヤツも、作るヤツも、買うヤツも、食べるヤツも、みんなめんどくせーだろ」

メイの頭の中で、図式が浮かぶ。

作らせるヤツ=ルイーザ
作るヤツ=ルース
買うヤツ=お客さん
食べるヤツ=お客さん、またはその関係者

ルースの作る不思議な効力のあるチョコは、確かにいろいろと面倒だ。

不意に、ルースと姿を消す女性客たちの顔を次々と思い出してしまって、メイは息ができなくなった。

「あぁ、売るヤツもだったか」


売るヤツ=あたし!!

「おせっかいって言いたいんでしょ。面倒なヤツだって自覚してるもん」

なんでもないような顔をしながら、こちらに差し出してくるルースの細い指は、少し頼りなく見えた。首の後ろに差し入れられたその手には、わずかに躊躇いがある。



「メイ」

こんな思いをさせておきながら、目と目を合わせ、聞いたことのないしっとりとした優しい声で自分を呼ぶルースを、ずるいとメイは思う。

「なによ?」

その近い距離だけが、メイの心に小波を立てるけれど、むっとした表情は崩れない。

「お前が一番タチが悪い」

「ひっどーい!」

思わずメイがルースの襟元を掴んで揺さぶったら、そのままの勢いで、キスが降ってきた。


「だって、お前だけが俺の中をぐちゃぐちゃにできる」


はっとしてメイが見上げた先の、ルースの目は静かで、どこもぐちゃぐちゃになんて見えないのだ。ぐちゃぐちゃになるのはいつだってあたしの方。

「あ、あたし、」

キスの衝撃の余波に耐えつつ、「そんなことしない」と続けるつもりだった言葉は声にならない。

「メイ」

もう、このキス魔の方がよっぽどずるい。自分の言いたいことだけ言い捨てて、こちらに言い分なんかキスで全部飲み込んでしまうんだから。

「なぁに」

ずるいと思ったって、そんなに甘い声で呼ばれたら無視なんてできない。答えた自分の声にも、聞いたことのない甘い響きがあって、メイはさらに赤面する。


「呼んでみた、だけ」

落ち着くために、少しの時間視線を外したらしいルースの頬が、わずかに赤みを帯びていることに気がついたら、触れたくて仕方がなくなった。

両手でそっと触れてみると、ちょっと驚いたようにこちらを見下ろすルースの表情が、愛しくてたまらなくなった。

どうしても、「メイ」と呼ぶ声が、「好きだ」と聞こえるのはなぜだろう。


メイは、思い切り体重をかけて、引き寄せた彼の唇に、突発的にキスをした。


「…あたしまで、キス魔になったみたい。あっ、もしかして、さっきの、あのチョコの塊」

「バ、カ。あれは俺の手なんか加えてねーよ」

何らかの魔力が宿っているんじゃないかと、慌てるメイに、動揺を隠しながら、ルースは苦笑いを浮かべた。

「強いて言うなら、“原点に戻る”って感じがするな」

原点。

ルースが実家から独立するきっかけになったチョコレート。

それから、家族の基本になる夫婦が一組生まれた今。



「なんでもいいや。もう」


メイは、もう、ルースの唇しか見ていない。

美味しいチョコレートの香りなんか消えちゃったのに、もっとキスしたい。



ぴったりと合わさった唇からは、案の定甘い香りがしないのに、その感触だけでメイはくらくらした。


「嫌がることはしない」

メイがよくわからないまま思わずこくりと頷いたのを、勝手に同意と受け取って、ルースは再び口付ける。

出会った頃に、寝惚けながらも理想的だと感じたメイの唇の感触は、やはり彼を夢中にさせた。

だから、キスの位置を次第に下げながら、ルースは「多分な」と付け加えることを忘れなかった。


「なに、す」

ようやく動揺を見せ、真っ赤な顔で何か言おうとするメイの唇を、またしてもちゅうっと吸ってやった。


「何って、本当の家族になるんだよ」



わかるような、わかりたくないような、ルースが意図しているところは別としても。

その「家族」という響きに、メイの瞳が水を湛える。

泣きたいような、笑いたいような、くすぐったい気持ちになるのは、いつもルースの言葉のせい。



「もう、本当の家族だよ、ルース」



誰もいないひとりぼっちのあたし。

たくさんの血縁者の中で、ひとりぼっちのルース。


少なくとも、あたしとルースで二人家族。



勝手に、入籍の手続きを済ませるとか、本気で頭おかしいんじゃないかと、今でも思うけど。

「お前はもうひとりじゃない」と言ってくれたルース。

「死に別れるまで」傍にいていいという意味なのだろう。


色んな言動が、不器用すぎて、突飛に思えたのに。

メイの、常識に囚われた些細なわだかまりの数々は、深いキスでチョコレートと一緒に溶けて、すっかり消えた。






…トン