「チョコレートは、なくてもいいの」


しばしの沈黙の後に、メイは、ポツリとそう言った。

背中を向けたままのルースには届かずに、言葉がぽとんと落ちたような錯覚に陥りながら、メイはソールの言葉を思い出す。

確か、「作ったチョコの魔力を持て余しながらも、それを存在意義だと思い込んでる」と評したはずだ。

まさか、本当に、魔力を持つチョコレートを自分の価値だと思ってないでしょうね?

メイがそう思っているのと裏腹に、当のルースはそう思っていたらしくて、メイは言葉を探す。

「不思議なチョコレートがなくたって、ルースのお菓子は全部おいしい」

ふっとルースが苦笑いしたような気配がして、メイはどう言えば自分の考えが伝わるのだろうかと、一生懸命考える。

「もし、そんなお菓子が作れなくなったとしても、ルースのいいところはほかにもいっぱいあるでしょ」

そう言ってしまったところで、ルースががばっと身を起こして、ぐっとメイの顔を覗き込んだから、メイはびっくりした。
「例えば?」
「えっ!?」

まさかの問いかけに、即答しかねて冷や汗をかくメイ。

「ないだろーが」

あっという間に目をそらして、つまらなさそうにそっぽを向くルースに、メイは必死になる。

「びっくりしただけだから!ほら、どこでも寝れるところとか、ご飯食べなくても平気なとことかさ。えーと、あとあと、昼夜逆転生活も平気だったり、お金に細かくなかったりね」

「…それ、全部欠点じゃね?」
「………あっ」

思わず口を覆ったメイに、ルースはため息をつく。

いくらなんでも、マズイ。

だいたい、初めて告白した時だって、「なんでかわからないけど、好きなんだもん」という台詞で気まずい雰囲気にしてしまったのに、全く進歩していない自分が嫌だ。

メイはあれこれ考えてみるが、結局思いつくルースの長所は、すべて短所の裏返しなのだった。
「そうかもしれないけど、あたしは、そういうルースがいないと嫌だ」

気持ちを込めて訴えても、ルースはわずかに首をかしげただけだ。

「お菓子がなくてもいいんだけど、ルースがいないと困るの」

何と言えばいいのか困りながら、メイは言い換える。そこでようやくちらりとメイに視線をよこしたルース。


「言葉で説明して。今まで俺自身だけを求められたことなんかなかったから、わからねーし」

「え?」

メイはきょとんとした。

「俺じゃなくて、チョコレートを欲しがる女ばかりだったから」

「…なら、チョコレートだけ売ればいい」
しばらくの沈黙の後にそうは言ったものの、メイは、全ての女性客が、必ずしもチョコレート目当てではないだろうという気がした。

「そうか?」

マーリンだって同じことを言っていたものだ。そう思わないのは当の本人だけだというのが奇妙だ。

「そう。売るのはチョコレートだけ。ルースは、あたしの大事な人だから。チョコレートのおまけになっちゃダメなの」

「へえ」

からかうようにメイの顔を覗き込むルースは、予想外に穏やかな笑みを浮かべていて。


「誰にも貸せないの」

メイは、見とれながら、本心を吐露していた。

ごく近い距離で、ルースと見つめ合うなんて初めてのことで、メイは熱に浮かされたような状態だったから、直後に何が起こったのか、把握するのに時間を要した。



「……ん!?」首の後ろに大きな手が回って、いつの間にかしっかり唇同士が合わさっていた。

何度か同じことを体験したものの、やはりまだ慣れない感触を口の中に覚えて、やがてとろんと目を閉じたメイはめまいまで感じ始めた。


「じゃあ、いいよな?」

それを見計らったかのように、ルースがメイのブラウスの裾から手を入れて、そっと背中の素肌をなで上げた。

「…そそそそそうじゃない!」

ぞくりとした感覚に、メイは慌ててルースを突き飛ばした。

「なにが違うんだよ?」

ルースは俯き、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。

「だ、だから、まだ怖いんだってば!」

明らかに苛立った様子のルースに、メイは泣きたい気持ちになる。

彼の期待に添えればいいのに、何も知らないあたしは、本当のところ、膝が震えそうなのを必死にごまかしているような状態なのだから。
「もう他の女とどうこうする気にならないんだよ。いよいよ面倒くせえ感じになった」

そこで言葉を切って、ルースはそっとメイの潤んだ瞳を覗く。

「ガキくさい残念な体型なのに、なぜかお前にしか欲情しない」

メイは頭まで茹で上がってしまったようで、返す言葉が見つからない。

しかし、そんなメイを尻目に、ルースは怠そうに立ち上がる。


「マジ迷惑」

そう言い捨てて、ルースがドアの向こうに消えかけた瞬間に、メイは反射的に駆け出していた。



「れ、練習する!」

足を止めたルースが、「は?」と首を傾げるのはわかったけれど、メイは懸命に言葉を重ねる。
「慣れるように頑張るから!」

また、ルースが気分を損ねて、元の自堕落な生活に戻らないように。

「ちょっとずつ慣れるから」

そして、あたしのことが心底苦手になったりしないように。

「慣れる、はず!」

まだドアを半分開けたまま、振り返りもしない彼に、メイは不安を感じながら続けた。


「だから、行かないで」


祈るような気持ちで、そう本音を吐き出すと、それは思った以上に情けない声だった。メイは自分に驚いたけれど、ルースはようやくドアから手を離してメイの方へと向き直った。

「怖いくせに?」

そう言われて、メイは自分がなぜ怖いと感じるのかを考えた。
「怖いのは、慣れてなくて、すごく緊張するし」

チラリと視線を下ろしたルースと、ようやく目が合う。

「ドキドキしすぎてどうにかなりそうな、せい」

その瞳に引き込まれるように、メイは呟いた。


「俺のことがずいぶん好きみたいに聞こえるけど?」

からかうような笑みを浮かべたルースに、メイは恥ずかしくなりながらも安堵した。


「で、どうやって『慣れるように練習』すんの?」

メイは一瞬固まった。

ルースを引き止めるのに必死だったから、当然のことながら、具体的な案など全くない。

「ま、まずは、こう」

恐る恐るルースの手をそっと握ってみる。意識しないようにと言い聞かせれば言い聞かせるほど、メイは緊張して行く。

大きくて、ゴツゴツしてるけど、ひんやりと冷たい。
「中学生レベルだな」

顔を赤くして、体を硬直させているメイに、ルースはくすりと笑った。馬鹿にされているのに、メイは思わず見とれてしまった。

「次はこうか?」

神経を集中させていた右手の、自分の指にルースの指がするりと絡む。握るときより、さらにぴったりと肌が密着する感じがして、メイはさらに緊張しながらも、当然のように頷いてみせた。

ルースは吹き出さないように気を付けながら、口を開く。

「で?」

へ?と我に返ったように見上げるメイを、かわいいと感じる自分に気づきながら。

「次はどうすんの」

あ、と漏れた声は、明らかに動揺している。

「こう、かな」

自分の肘の内側に、遠慮がちにちょっと指先をかけたメイに、ルースはいよいよ笑いが堪えきれなくなったが、咳払いで誤魔化した。
「じゃ、次はこう?」

その手を引っ張って自分の腰に回し、同じようにメイの腰を抱いた。

細い。

あんなにパクパク食うくせに、座る暇もなくくるくる働くからだ、と店でのメイを思い出す。

「合ってんの?」

すっかり無口になったメイに、敢えて尋ねたら、慌てて頷いたが、「多分」と言う小さな一人言はしっかりルースの耳に届いた。

「で?」

意地悪くそう続けると、いよいよ困惑を隠しきれなくなったメイに、ルースは微笑んだ。

「まさか、この程度で『頑張った』っていう気じゃねーだろーな」

そう言ってやると、メイがはたと静止して、呆然とルースを見上げている。
その目が珍しく水気を帯びていくのがかろうじて分かり、ルースが「しまった、言いすぎた」と思ったそのすぐ後。


ちゅっ。

精一杯背伸びをして、ルースの頬を小さな手で引き寄せたメイが、キスをした。



あ、ダメだ。


二人は同時にそう思った。

ルースは、自分がメイにハマったことに気がついたし、メイは、自分の心肺機能に重大な障害が起こったことに気がついた。


「やややや、やだった?」

硬直したルースに、メイは気が動転したままで必死に話す。

しかし、呼吸が苦しくて、心臓が爆音を轟かせているという状態に変わりはなく、うまく頭が働かない。

「ごめんね、その、ひょっとして、なんか言ったほうがよかった?あっ、もう遅いか。あ、ああ、なんかあたし、体調悪いかも」

蒸気でも出そうなほどに真っ赤なメイは、確かに熱でもあるような顔だ。
「きゃぁああ…」


それなのにふいにぎゅうっと抱き寄せられて、メイは無意識のうちに悲鳴を上げていた。

「落ち着けよ。うるせーな」

あ、また嫌われる。

「ご、ごめん」

メイがしゅんとして口をぎゅっと結んだとき。


「バカ。物足りねーだけだ」


耳に熱い息がかかって、メイはまたどきりとさせられた。

「今日はこれで我慢してやる」

耳の感触に、まだ気を取られたままのメイは、あっという間に唇を奪われて、舌をさらわれたのだった。

そして、引き寄せられた肩を掴む大きな右手と、首の後ろに回された左手に、拘束されている気がしていたのに、やがてはその支えがないと困るくらい、メイはクラクラしてくる。

「そのうち、抱いて欲しいと思わせてやるから」


抱いて欲しいとか欲しくないとか、全くわからないんだけど。

メイは、ルースが自分の未知の領域のことをよく知っているように思えた。対等なような気がしていたけれど、実際のところ、やはり彼が随分歳上なのだということを思い知った。


あたしなんか、もう息が上がって、何も考えられないのに、どうしてそんな元気があるんだろう。

メイは、捕食するかのような激しいキスに、朦朧としながらも、ぼんやりとそう思った。

思う存分に唇を堪能して、ようやく開放してやると、ぐったりとして腕の中に倒れこむメイに、いくらか満足して、ルースは微笑んだ。

唇から全身に甘ったるい毒が広がったみたいで、「もうどうにでもして」という気持ちになったメイは、ひょっとしたらこれが「抱いて欲しい」とかいう感覚につながるんだろうかと思いついたら、さらに意識が遠のきそうになったのだった。