「メイ」

涼し気な声とともに、ルーファスが姿を見せた。

「お腹空いた?」

メイは、黙ったままで、首を横に振った。

ルーファスも、メイが食欲をなくしていることには気が付いている。


「これ、女王が焼いたんだけど、味見してみない?」

そう言われて、ふと視線を向けた先の皿に、シェル型の焼き菓子を見つけて、メイは今度は首を横に振ることはできなくなった。

マドレーヌ。

すっかり色をなくしていた瞳に、かすかに表情を宿すメイに、ルーファスは何も言わないままで、その菓子を一口つまんで、食べさせてやった。


ぽたり。

その小さな一口を、時間をかけてゆっくりと飲み下し、メイは透明な涙を一滴、頬にこぼした。


「似てる」


そう小さく呟きながら、頭に思い描くのは、やはりルースの作ったマドレーヌの味だった。

女王のマドレーヌは、ローランドとルースとの間くらいの強さでレモンの香りがした。

「一応、親子だからね」

そう言うと、ルーファスはメイの顎を持ち上げ、涙の跡を唇でなぞった。

「女王と弟は、異性にだらしないところもそっくりだよ」

ずきり。

メイは、胸の傷が痛むのを、はっきりと自覚した。

それをごまかすために、視線を窓の外へ投げた。嵌め殺しの窓の外は、嫌味なくらい晴れ渡る空で、その下の丘を駆け下りれば、すぐに元来た森へと戻れるはずだった。

メイは、本当に、ルーファスの家に“ちょっと遊びに”行くだけのつもりだった。

しかし、訪れた先は、メイの考えた家とは程遠い、おとぎ話の挿絵にあるような重々しい古城だった。

「どうぞ」と恭しく扉の前でお辞儀をしてみせるルーファスに、導かれるように中に入ったら、そのうちに帰ろうという気が魔法のように消え失せたのだった。


ここでルーファスの言う「女王」の名は、ルイーザ。どこかで聞いたことのある名だと思っていたら、それはルースの母である人だった。

彼女の子、つまり、ルーファスの「弟」に当たるのがルースだと言う。ルースにはさらに母親の違う弟のソールがいる。ただでさえ複雑だと思っていた環境は、悪魔の城にまで範囲を広げるとさらに複雑さを増すのだということを、メイは初めて知ったのだった。


「不特定多数のよく知らない女と、同時進行でべたべたできる神経は理解できないな。ねえ、メイ。君もそう思うだろ」

我に返ったメイは、とりあえずこくんと頷いたものの、それで胸の痛みが和らぐ気配はない。チョコレートを買い求める女性客を何人も思い浮かべて、メイは俯いた。


「その上、昔の恋人の娘に手を出すなんて」

ずき。

胸の傷が、いっそう開いたかのように痛んだ。

その上、ルーファスは、メイのその胸が痛む音が聞こえたみたいに、こう続けるのだ。


「ルースは、君のママが好きだったんだよね?」


ずっきん。

確かにあの字は、ママの字だった。ルースの部屋で見つけた手紙の。たった一言「ルースへ」と書かれた文字だけで、そのことはすぐにわかった。


「そう、みたい」

メイは、そう呟いた。ルーファスがはっきりと念押ししたことで、再び動揺する自分にうろたえる。



「ねえ、手紙には、なんて書いてあったの?」

促すルーファスに応えるべく、メイは、口を開いたものの、言葉に出すことは躊躇われた。

「“お手紙読みました。あなたの気持ちは嬉しいですが、私は死んだ夫以外の人を愛することができません”」

はっとして顔を上げるメイに、ルーファスは優しく微笑んだ。

「まあ、メイのママも、メイみたいに真っ白な心の持ち主だったみたいだしね、悪魔にとっては大好物だ。俺でも手を出したかもしれない」

くすり、と笑ってルーファスは、メイの唇に口づける。

悪魔って怖い。あたしの心を読んでいるのか、記憶を読んでいるのかわからないけど、いろんなことを知っている。

そして、知りたくないことを教えて、聞きたくない言葉を聞かせるのだ、何度でも。

まだ、『昔の恋人』という言葉が、メイの脳内では何度も繰り返されている。メイが盗み読みした手紙は、母親のライザはソールの気持ちを受け入れる様子もなさそうな文面だった。

なのに、ルーファスが“昔の恋人”と言うということは、あれからふたりの関係が変化を遂げたのかもしれない。

そう推測してしまう自分が、本当に嫌だと、メイは思う。


どんなものだろうかと憧れていた恋が、自分に訪れたかと思ったら、みるみるうちにこんなに嫌な人間になってしまった。
「ふふ。レモン味」

不意に唇を寄せて、無邪気に微笑むルーファスとは対照的に、人形のように無表情で、メイはうっすらと目を開いたままだ。

「きっとそのうち、メイの心も真っ黒に染まる。そうなったら僕と同じ悪魔になるんだよ、メイも」

何度か教えられたその原理は、わかるようでわからないとメイは思う。悪魔の中でも、王族と呼ばれる一族にだけ、その能力が備わるらしい。

「悪魔になったら、あたしは楽になれるの?」

どこまでも破れた恋のことを考えているのだな、とルーファスは苦笑いしながらも、答えた。

「そうだね。悪魔になれば、思考回路がずいぶん変わるだろう」

メイは空想してみる。辛いことは楽しみに変わるかもしれない。

自分ひとりがこうしていなくなったって、ルースは何の変わりもなく、あの店でだるそうにチョコレートを売っているのだろう。悪魔になってしまえば、そんなことを想像して、わざわざ心を痛めることもなくなるのかもしれない。

「僕がメイを幸せな花嫁にするためにも、メイを悪魔にするしかない」

そう続けながら、愛おしそうに、ルーファスが目を細めながら、メイの髪を指で梳く。

「待ち遠しいな」

抱き寄せられたその腕の中で、メイは一層固く暗くなっていく自分の心を感じ取りながらも、それはきっと心が黒く染まっているのだろうから、このままでいいのかもしれないと思いはじめていた。


「どうして、あたしなの」

何度か口にした疑問だけれど、まだよくわからない。
「言っただろ?白い心は、僕たち悪魔の王族にとっては美味しいんだ」

それも、何度も聞いた。心が白いとか黒いとか、ほかにも色々あるっていうことも不思議だけど。

「美味しくたって、黒く染まったらもう味わえないんじゃない?」

どうやって味わうのかさえわからない。

「いいんだ。そのときはメイも悪魔になれるし、身も心も全部、僕のものだから。そうやってこの城で、僕の花嫁になればいい」

満足げにそう答えるルーファスに、メイはわずかに首をかしげた。


「あれ…?そういえば、女王は、たしか、ローランドさんと結婚してたんじゃなかった?」

“花嫁”から連想し、ふと感じた疑問は、メイの口からこぼれていた。女王のルイーザは、ローランドとの間にルースをもうけたはずだからだ。

「その前に、王と結婚していたからね、問題ない」

「えっ」

なおさら問題じゃないかと驚いたメイの顔に、くすりとルーファスは微笑しただけだ。

「その間に生まれたのが僕だよ」

なんでもないことのように、メイがわかりやすいよう話すルーファスに、メイは混乱する。


「そもそも悪魔には、人間と全く同じ感覚での婚姻の概念はない。ただ、そのとき限りのパートナーってわけで。

女王は、王の権力も愛したし、ローランドの菓子も愛した。だから双方を行ったり来たりしていたんだろう。要するに、初めてのことが同種でないとできないだけなんだ」

ぽかんと口を開けたままのメイ。
「たとえば、人間であるメイが同じ人間の誰とも抱き合ったことがなければ」

そんなメイの背中と腰に腕を回し、ルーファスは抱きしめた。

「悪魔の僕は、メイを抱きしめることすらできない」

そっと体を離して、ルーファスはメイのガラスのような瞳の奥を覗き込む。

「そして、誰ともキスをしたことがなければ」

ルーファスは静かに目を伏せて、顔を斜めに近づけると、ちゅ、と音を立ててメイの唇を吸った。

「僕が、メイにキスをすることもできなかった」

はっと目を見開くメイの、その唇をルーファスは愛おしげに親指で優しく撫でた。

その手は細く頼りない首を伝って、鎖骨に下りる。そこへも唇を落とそうとして、ルーファスは小さくため息をついた。


「ここまでだね。もう近寄ることができない。…メイの初めてのキスは、誰がもらったのかな」


ふいにきらりと瞳を光らせながら、ルーファスが真顔でメイの顔を覗き込んだ。

まるでもらい事故のようだったファーストキス。残念なことに、その後の2回のキスだって、滅茶苦茶だ。

それらの記憶をたどったメイは、にわかに混乱した。

「ひょっとして、人間でも悪魔でもないっていう都合のいい生き物じゃないのかな」

ルーファスはともかく、メイにとってはそんな生き物はただ一人しか思い当たらない。

「まだ、彼を思い出すと涙が出るんだね」

再びぽろぽろと涙をこぼすメイに、ルーファスはけだるそうなため息をひとつ吐いて、彼女の頬をそっと拭ってやった。

「思い出せないくらい、僕が上書きしてあげる」

目を閉じて、ルーファスの一途な気持ちを受け止めようと、メイは記憶に蓋をする。

悪魔に婚姻の概念がないと言うのなら、同時進行は好まないというルーファスの興味が他へ移れば、簡単に自分が用無しになることは、メイにもなんとなくわかる。

それでも、今はそのルーファスの気持ちに縋りついて、自分の傷を癒したいと思ってしまう。その誘惑から身を引くことができずに、飲み込まれていくばかりだ。

こうして「彼」を忘れようとしているのに、メイの心はなかなかすっきりと晴れないのだった。


古い城の、厚いガラスの向こうの空を見ながら、メイはあの洋菓子店からずいぶん遠くに来てしまったような気がしていた。ふと感じた違和感が、何のせいなのか、メイは窓枠に置いた自分の手を見ながらしばらく考え込んでいた。


手荒れが、ない。


つるんとすべらかな皮膚が、やわらかく日差しを受けて光るようだった。

たった半日、水仕事をしないだけで、こんなにも回復するものだろうか。メイが不思議に思ったその時、目の前のガラスから、カツカツと鋭い音が聞こえた。


「べべ!」


見慣れた緑色の鳥が、窓ガラスを嘴で懸命につついていた。

何か用があるのだろうかと思い、中に入れてやりたいのに、目の前の窓は嵌め殺しで、開けることはできない。どこか開く窓はないかと、客間らしいこの部屋の中を歩き回るものの、そんなものは見当たらない。

そうこうしているうちに、あれほど晴れていた空が、にわかに曇ってきた。

「やだ」

まさか雨なんか降らないよね、と思ったそばから、厚さを増した黒い雲からぽたりと雫が飛んできたのだ。


べべは狂ったように窓をつつき続ける。

「べべ、どうしたの?だめ、怪我するよ」

はらはらしたメイが、自分が外に出ればいいとひらめいて廊下に飛び出そうとした瞬間ピシッという音が部屋に響いた。

振り向いたメイがあっと思う間もなくガラスは粉々に割れて、べべが凄まじいスピードで室内に飛び込んできた。そこで初めて、メイは雨だけじゃなく風もひどいのだとわかった。

「べべ!大丈夫!?」

室内にもかかわらず、ひどい雨風の中、メイはずぶ濡れのべべを必死で自分の懐に入れた。

まだ温かい体に一安心したものの、どこか痛めたのではないかとメイはべべを覗き込んだ。

「手紙、持ってきてくれたの?お店で待っててくれたらよかったのに、どうしたんだろう」

べべの足に結ばれた筒に入っている、いい加減に丸められたメモ帳に、メイの疑問は増すばかりだ。マーリンなら、ちゃんと素敵なデザインの封筒にお揃いの便箋をきちんと入れるのだ。

首をひねりながら、メイはその丸まった紙を開いた。


「あ」


冷たい雨が打ち付ける中、メイは熱いものが一筋、自分の頬を伝ったことに気が付かない。


“まだお前の借金は9000ポンド残っている。早く帰ってきて働け”


誰から誰に宛てたものなのか、普通は書くものだろう、とメイは思う。でも、この場合は、書かなくてもわかる。

なぜか、黒いチョコレートが包まれていたから、メイはそっと口に入れてみた。

「…なんかやけに苦いし。だいたいあたし、まだ1000ポンドも返してないんだけど」

メイはくすりと笑う。どうせ相変わらず売上や収入のチェックなんてしていないのだろう、あの妙な思考回路を持った菓子職人は。

だいたい、メイの月給だって「あの箱からテキトーに持っていけ」という額らしい。困惑したメイは、ソールに相場を聞いて、そのくらいの金額をもらうようにしているものの、1万ポンドなどという法外な値段の借金など、まだまだ返せそうにないのだ。

「べべ、ありがと。あたし」

「ルースのビターチョコを食べたね?」


ざあざあごうごうとひどい風雨の音の最中なのに、やけに低い声がよく響いて、メイは飛び上がった。

「ああ、うん、そうみたい」

振り向いた先のルーファスの表情が硬くて、メイは洋菓子店から連れ出されるときのことを思い出した。

ルースにはルーファスの家へ行くと言うなと言ったっけ。それは、お母さんのルイーザが城にいるせいだと思っていたのに、違うんだろうか。

「“冷静になる”」

低い声で呟くルーファスに、メイは確かに自分は冷静になれたけど、それはチョコのせいなのか変な文面のメモ帳のせいなのかはわからないと思った。

「食べちゃったんだ」

繰り返すルーファスの言葉に、次第に不安になりながらも、メイはきっぱりとこう言った。


「ルーファス、あたし帰る」

「だめだよ」

「えっ」

「だめだ」

確かに、“帰りたくなったらいつでも帰ればいい”と言ったはずだという言葉が、喉元までせり上がった時。


「帰した方がいいんじゃない」


妙にくつろいだ声がして、緊迫した雰囲気が一瞬で塗り替えられた。


「なかなか根性のある守り人だねー、その鳥は」

はっと目を引く赤い唇の美女は、そう言いながらメイの傍まで歩いてくる。呆然としているメイの懐をひょいと覗き込み、ちょんとべべの小さな頭をつつくと、一瞬でその体が乾いたから、メイも「この人がルイーザさんだ」と気づいた。

振り向くと、窓も元通り、傷一つない。


「あ、あの、べべが守り人なんですか?あたし、てっきりルーファスが守り人なんだと思ってました」

その家や人を守る存在があると、山の村では言い伝えられていて、メイの家ではそれは小人の姿で時折現れるルーファスだと思っていたのだ。

「やだー、これは疫病神よ。トップクラスの悪魔。自分のことしか考えてないもん」

「…女王」

笑い出すルイーザに、ルーファスがわずかに嫌そうな顔をしたものの、努めて冷静に声をかけた。

「なあに?」

「あなたに言われたくありません」

「ふふっ。そうねー。でもあたしは、子どもたちのこともちょっとは考えるわよ」

「なら、口出しは慎んでいただきたいのですが」

「やだなあ、これもあんたのため。自分の方を振り向かない女の子に時間を費やさないでいいんじゃないかなって思うから」

「……」

にこにこ笑う女王を前に、今度は心底嫌そうな顔になって、ルーファスは黙り込んだ。

一方でメイは、「子どもたちのこともちょっとは考えるわよ」という彼女の言葉で頭がいっぱいだった。「子どもたち」と言うからには、当然、ルースも含まれるはずだと。


「じゃ、じゃあ、ルースに手紙を書いてください!!」

「はあ?」

ルイーザはきょとんとしている。

「おせっかいで、すみません。余計なことするなって、いつもいろんな人から叱られるのに、あたし。でも、お願いします!」

メイの思い出す「いろんな人」の中には当然ルースも含まれる。

「なんで?あたし字が汚いんだけどなあ」

「字なんかどうでもいいんです!あ、ごめんなさい。字じゃなくて、あなたがルースのために何かをしたという事実が欲しいんです。なんでもいい、短くていいですから」

「ふーん、確かにおせっかいだけど、それってなんか面白い考え方だね」

くすくすと笑うルイーザは、尋常でないフェロモンを撒き散らしていると同性のメイですら思う。言動が気まぐれでなんだか変だけど、それでも彼女の魅力は目減りしない。

「どれどれ、書いてみようかな」

そう言われて、メイは慌てて壁際の机に駆け寄って、書くものを探した。



「はい、できあがり。じゃあ、これでもうおかえり、子羊ちゃん」

「子羊?あたし、羊に似てますか?」

真面目に問い返すメイに、ルイーザはすうっと笑みを消した。

「そう、“迷える子羊”にね」


そのときメイの背筋がぞくりとしたのは、気のせいではなかった。



「……文字通り、迷子ってことか」

荒い息の下、メイは呟いた。どのくらいの時間、この景色を見続けているのかわからない。

あの悪魔の城を出たときには、外は曇り空ではあったけれど、雨も風も止んでいて、安堵したのに。やはり、ただで帰してはくれないのか。

白い心を黒く染め、同じ悪魔になって欲しいというルーファスの願いを、受け入れると返答したにもかかわらず、すぐに反故にしてしまったのだから、無事に済まないような気はしていた。

林のようにまばらだった木々は、次第にうっそうと茂り始めた。でもまだその時点では、「あれ?こんなところ通ってきたっけ?」と一瞬浮かんだ考えはあっさり消えていたのだけれど。

やっぱり、変だ。道がさっぱりわからない。城へ向かう時にはすぐに通り抜けられた一本道のある明るい森だったのに、こんなに深いところに迷い込むなんて。

でも、帰り際の女王の表情を思い出すと、この状況を作り出したのがルーファスなのか彼女なのかが、メイには予想もできなくなる。


ああ、もう。そんなことより。

足が痛い。体中の筋肉がこわばるみたいで、なのに立ち止まるのが怖い。

早く町へ行かなくちゃ。


町って言っても、そのはずれの小さな店だけど。あの洋菓子店へ。

「きゃっ」

まるでメイを森に閉じ込めるかのように、地面に這い回る木の根に、とうとうメイは足を取られて転倒した。

「うぅ、いったーい…」

左足の小指がずきりずきりと嫌な痛みで疼きだした。


冗談じゃない。こんなわけのわからないところで。ひょっとして死ぬとか。

「あたし、まだ山ほど借金があるんだけど!!」

ぶるんぶるんと首を横に振って、メイはルースが落書きしたようなメモを思い出す。

ママの思い出のマドレーヌを食べたお金が払えていないから、店で働かなくっちゃ。

ルースに、会わなくちゃ。


このままじゃだめだ。


あたし、ルースに会いたい。



痛む足を引きずって歩きまわりながら、メイの思考はその一点でしか働かなくなっていた。

どれくらいの時間、森をさまよったのかは、とうとうわからなくなった。

ぽつり。


追い打ちをかけるように、木々から滴が落ちてきて、メイは深い夜に落ちた森に、雨が降り始めたことに気が付いた。

はあ……。

仕方なく、すぐそばの木にもたれたら、あっという間に意識は失われ、メイはその根元に倒れたのだった。




「もう、ダメ、だ…」

腕の中に崩れ落ちる彼女を抱き留めると、メイがそう囁いたから、ルースははっとした。

その体は予想以上に軽く、胸がひりひりと傷んだ。

ルースは、べべが飛んだ方向を追って、森に入ったものの、見慣れたはずの道は一つも見当たらず、おかしいと思っていたところで、メイを見つけたのだった。

「ここまでになる前に言えよ」

ルースの苛立った呟きは、メイの耳には届かない。

「でも、やっと、初めて弱音を吐いたな」

どこか嬉しそうに、ルースは付け足して、ぎゅうっと腕に力を込めた。「痛い!」と騒がないメイが、愛しいやら腹立たしいやらで、胸からいろんな感情が溢れかえるのに耐えながら、ルースは彼女を抱いたままでいた。

その耳元で「メイ」と何度呼びかけても反応がなく、不安になったルースがメイを横抱きにして歩き出すと、目は閉じたままながらも彼女が猫のように頬をすり寄せたから、ほっとした。

「ルース?」

かすれた小さな声に、ふとルースが視線を下ろすと、薄く開かれたメイの瞳がまだ潤んだまま揺れていた。

「…夢か」

勝手に納得して目を閉じるメイに、耐え切れずルースが吹き出すと、今度こそメイの目は大きく見開かれた。

「はっ!?」


大げさにのけぞるメイに、ルースは仕方なく立ち止まり、そばの木の下に腰を下ろした。

「こんな面倒くせえ夢、俺、見たくないんだけど」

怠そうな様子はそのままなのに、やや長めではあるものの、さっぱりと切られた髪から、そっと視線を投げかけてくるルースは、一見本人だとわからないくらい変わって見えた。
「嘘!!髪、切っちゃったの?どうしたの?暑い?何かあったの?」

びっくりしたメイは、全身の痛みも疲れも忘れて一気に言った。

すぐに視線をそらしがちだったルースが、ぼんやりとではあるけれど、メイの目を見つめ返すことも珍しく、さらにメイは不安になった。

「何があったの、色でからかわれたの?それならあたしがとっちめてや」
「口うるさい売り子が行方不明になった」

「…え」

あたしのことか、しかも口うるさいって失礼な、とメイがぶつぶつ言っているそばから、ルースが続ける。

「仕方なく売り場に立ってたら、『愛想が悪い』って苦情が殺到した」
「ぷっ」

だろうな、と笑うメイに、ルースは笑い返すこともなくさらに続ける。

「何日経っても、売り子が帰らなかった」

「え……?」

メイも、笑いを消した。あたしが城にいたのは、ほんの半日のはずだ。
「何ヶ月経っても、戻らなかった」

「嘘……」

いよいよおかしい、ということに、メイも気がついた。


ルースの言うことが事実なら、町と城とでは、時間の経過する早さがずいぶん違うということだ。そう言えば、女王は、ルーファスに、膨大な時間を費やすなと言っていた。

「きっとまた元通りになった俺の素行に呆れたんだろうと思った。だから、髪切って、身奇麗にして、女にも構わなくなって、酒もやめた」

メイは、さらさらと話すルースの、その内容の重さに、メイはとうとう言葉を失った。

それまでのルースの生活のほとんどが変わったということだから。

「でも、帰ってこない」

まだ控えめに視線を合わせるルースに、メイはただ涙をこぼすことしかできない。


「どうしようもないから、べべを餌付けした」

だから、べべがルースの手紙を運んできたんだ。

ルースとべべは仲が悪かったはずなのに、おかしいと思った、とメイは呟く。いろんな気持ちは、涙で流されて言葉にならなかった。


「ありがと」

ひとしきり泣いて落ち着いたメイは、そう呟いた。

「ん?ごめんね、じゃねーの?」

ルースがそう言うと、メイは涙で濡れた頬のままでふわっと微笑んだ。

「心配かけてごめんね。それから、探してくれてありがと」

メイのその笑い方は、ライザによく似ていた。



「お前は、なんで俺なんか好きなんだろうな?」

心から不思議そうに、ルースが首をかしげたから、メイは気がついた。お前“は”、という表現で、自分と母親とを比べているのだと。


「ごめんね、見ちゃった、手紙」言うべきではないのではないかと思いながらも、メイの口からははっきりとした言葉が出てきた。

「ふうん」

やや目を見開きながらも、それしか言わないルースに、メイは肩すかしをくらったような気持ちになった。

「それだけ?なんか言うことないの?見るんじゃねーとか、うるせーよとか」

メイがキョトンとしてそう言うから、ルースは愛おしくて、彼女をからかいたくなった。

「ん?ライザは本当にいい女だったしな。惹かれたって仕方ねーだろ。綺麗で、可憐で。あれ、親子なのにお前とは大違いだな」

そんなこと、よくわかってる。

メイは、そう言い返したくても言葉にならない。


「あぁ!?…おい、泣くなよ、大袈裟な」

ママが綺麗で可憐で、素敵な女性だってことは、あたしが一番よく知っている。メイは心の中でそう呟く。
「似たかったけど。似なかったんだもん」

ぐす、と鼻を啜る姿まで、愛らしく見えるのはどうしたことだろう、とルースは自分に苦笑いをする。

「だな。うるせえし、大きなお世話ばっかだしな」

ぐ、と言葉も息も詰まったメイは、もはや胸を押さえて打撃に耐えるしかない。


「だけど、優しく見守ってくれるライザじゃ、俺の素行はそれほどよくならなかったんだよな」

「え?」


「へへ。親父の店を叩き出されたときのこと。まあ彼女のおかげで、なんとか、この店を始める気にはなったんだけどさ」

「あたしのママが、ルースを見守ってたって言うの?」

「ん。店から外に放り出された瞬間、ちょうど町まで花を卸しに来ていた彼女と鉢合わせた」

「へえ。随分朝早くに…、あれ、叩き出されたって言うのは、ひょっとして女の人と出かけてたせいだってこと?」

「ん?そう言えば、『あなたのお菓子、娘がいつも楽しみにしてるの』って言ってくれたんだったな」

素知らぬ振りで、ルースが続けた「娘」という単語に、メイはすっかり注意を引きつけられてしまった。


「へっ」
ライザの娘と言えば、メイしかいない。

「じゃあ、まあ、ちょっと店で売ってみるか、って思った」

「そうなんだ…」

幼い自分とルースとの間に、わずかながらも繋がりがあったことが、くすぐったい。が、その接点が母親だというところに、複雑な気持ちになるメイ。


「でも、面倒くせーんだよな、いろいろと」

「は?」

「金の計算とか、営業時間の縛りとか、売り子や客の態度とか」

「はあ?」

「酒飲んで眠る時が一番静かで落ち着いた」

「……でも、それじゃあ、体が」

「て、感じで、とてつもなくやかましいガキが転がり込んできたんだよ」

「む?」

「見守るとか、優しい言葉をかけるとか、全くできないタイプ」

ぐ、とまたメイは呼吸を詰まらせた。

「プライベートにも口出しするし、手も出すし、全然俺を放っておいてくれない」

げんなりした表情のルースに、メイはため息が出た。

「…ごめん」

おっしゃるとおり。以前から、いろんな人に「おせっかい」だとか、「余計なお世話」だとか言われたものだ。


「でも、心地よかった」

「え?」

はっとして、メイがルースの顔を見上げると、彼は不自然なくらい顔を逸らす。

「…ような、気もした」

「は?」

「お前が消えて、身辺が元通り静かになったら、なんか物足りないっていうか、寂しいっていうか」

「へえ…」

どこか素直なルースの言葉を意外に思ってメイがそう相槌を打ったのに。

「でもそのうちそれが、イライラに変わって、最後には腹が立ってきた」
「ええ!?」
「これだけ俺の生活をかき乱しておいて、あいつはどこ行ったんだよって」

「嘘…、何その結論」

唖然としたメイに、ルースはせせら笑う。

「まさか、それであたしを探したの?」

あんなに嫌われていたべべを手懐けてまで、手紙を運ばせたのは、腹が立ったせいだとは。

「そうに決まってんだろ」

「嘘!」

「嘘じゃなく、マジで」

「やだ、『好きだから』って言って欲しかった!」

メイが若干涙目でそう叫ぶ。


「ば、か…じゃね?」

ルースが不自然に言葉を詰まらせて、メイは急速に気持ちが静まった。

「バカでいい」

「あ?」
「あたしバカでいいから、『好きだから探した』って言って」

なんでこんなことを頼まないといけないのかとは思うけど、メイだって必死だった。どこかに、ここにいていい意味を、自分の恋の結果を、見出したかった。



「……スキダカラサガシタ」


随分長い沈黙の後に、あさっての方向を向いて一息に吐き出したルースに、「何その棒読み!」とメイは呆れながらも、今はこれで十分だと思った。

「ありがと」

勢いよく飛びついたメイを抱きとめながら、ルースはやっぱり髪は長いほうが赤い顔を隠せていいだろうなと思ったのだった。


「いたっ!」

いい雰囲気になるはずのところが、メイの悲鳴でぶち壊された。何かに足をぶつけたのだ。ぶつけたとは言っても、当たったという程度だったのに、ずいぶん痛くて、メイは不安になった。

「んだよ、まだ何にもしてねーぞ」

「う、うん」

ルースが、足を気にするメイの様子で、異常に気が付いた。かがんで近くで見ると、左足の小指が異常に腫れていることは明らかだった。
「ぎゃっ」

「あ、やっぱ痛い?」

ルースは、好奇心からつついてみたけれど、メイは痛みで涙目になっている。

「折れてんな、たぶん。町に戻ったらキツネに診てもらえ」

そう言うなり、メイの両手を掴んだと思ったら、荷物のようにひょいと背中に背負った。

「ええ!?重いよ、歩けるってば!」

メイがジタバタし出したので、ルースははあああ、と大袈裟なため息を吐いた。


「さっきは『もうダメ』とか言って、多少かわいく見えたなあ」

う。素直に甘えないとか、頑張りすぎるとか、そういうこともよく言われるとメイは思う。

「骨折したバカを歩かせてのろのろ帰る方が、うんと疲れるんだけどなあ」

うう。そうなんだろうか。

「お願い、します」

仕方なく、メイは抵抗を諦めて、ルースの背中に体を預けた。

初めは遠慮したくせに。メイだって自分でもそう思う。

「お前なぁ、呑気なもんだな。眠りかかってるだろ。やけに重くなったぞ」

温かくて大きな背中で揺られていると、次第にメイの意識がぼんやりしてきたのは、ルースに指摘されたとおりだ。

「うん…、ごめん。眠い…」

緊張して体を強張らせていたのが嘘みたいに、ルースとともに町に戻れるという事実が、次第にメイを安心させ、緊張を解いたのだ。

「寝ればいいけどさ。でももうちょっとちゃんと胸のふくらみが当たれば、俺だってもっと元気に歩く気になると思うんだよな」


一瞬沈黙した後、メイが「絶対に自分で歩く!」と喚き出したのは、言うまでもない。