張り詰めた空気を和らげるためか、狩野さんが言葉を掛けた。



「浜尾さん、お元気でしたか」


「はい。私もこちらへ、久しぶりにまいりました」



聞き様によっては、秘書である自分がここへ呼ばれることは減ったのだと

言っているようにも聞こえる。

真琴さんの言葉は明らかに私を意識したものだった。

法人契約のこの部屋は副社長である宗が専用に使っているもので、仕事の打ち

合わせなどにも使っていたはず。

真琴さんが秘書の立場でこの部屋を訪れたであろうことは、私にも容易に

理解できること。

けれど、宗と会うために何度もこの部屋にきている私にとって、彼女には踏み

込んで欲しくない空間だった。

真琴さんが宗の会社の人間である以上、彼女の訪問を拒む権利などないのに、

私は自分のわがままな感情に苛立っていた。



「狩野さん、ご結婚されたそうですね。おめでとうございます」


「ありがとうございます」



恭しく下げられた狩野さんの頭は上得意客である近衛グループの秘書への礼で

あり、そこには近衛宗一郎の友人としての姿は微塵も見られない。

「母ですの」 と真琴さんの紹介に、浜尾さんが座ったまま礼を返す。

客である立場を優先させる浜尾さんに習ったのか、宗も狩野さんへいつもの

気のおけない振る舞いはなかった。

ここでもぎこちない会話が続き、私は張り詰めた緊張に胃の奥がキリリと痛む

のを感じるのだった。

部屋を出る狩野さんが私を見て口元をゆがめて見せ、その顔は同情している

ようだった。


狩野さんがいなくなると真琴さんはすぐに立ち上がり、ドリンクやグラスが

置かれたカウンターへと向かった。

氷をグラスに入れミネラルウォーターを注ぐ。

真琴さんが宗の前にグラスを置くと、宗も黙って受け取りゴクリと喉に流す。  

水が欲しいと言う言葉は聞かれていない。

宗の習慣を知り尽くした彼女は、そうすることが当たり前のように行動して

いるだけだった。


私はと言うと、浜尾さんからの控えめな質問に静かに答えるだけ。

部屋に入って座ったまま、身動きすらできずにいた。

「宗一郎さんからお聞きして、お目にかかるのを楽しみにしておりましたのよ」 

と目を細めて、眩しそうに私を見る浜尾さんの気持ちに偽りはなく、私への

問いかけもとても穏やかなものだった。

けれど、私の目は浜尾さんを見つつも、意識は甲斐甲斐しく宗の世話をする

真琴さんへと向いていた。

彼女だって、宗の世話をしながら私たちの会話に耳をすませているはず。

部屋の中に見えない糸が張り巡らされ、そこに触れると絡め取られるのでは

ないかと思えるほどで、浜尾さんとの歓談に笑みを浮かべながらも、私の

心と体は一瞬の隙も見せない固い鎧をまとっていたのだった。