【電子書籍化】あの猫を幸せに出来る人になりたい

 ファストフード店で、ゆっくり話をして休んだ後、二人で帰りの電車に乗るべく改札へ向かった。
 またも乗りたい電車が既にホームにいるようだ。しかし今度は倉内は何も言わずに、ゆっくりと歩いた。
 あ、と花が心当たりに気づいて、少し恥ずかしくなる。
 食事後の会話の中で、電車の話もしていた。花が人混みが苦手なことを聞いた倉内が、「花さんでも苦手なものがあるんだね」と、とんでもないことを言い出したので、思わず苦手なものを羅列してしまったのだ。
 化学、物理、数学、電車、アリ、ナメクジ、蚊──その他、思い着くものをいろいろあげた。
 何でと理由を聞かれて、ひとつずつ仲良くできない理由を話した。
 化学や物理や数学は、筋道をたてて正しい道順を辿らなければ答えにたどりつけないので、しょっちゅう道を見失って迷子になるから、と。難しい問題を前にすると、すぐに森の中で一人ぼっちになってしまうタイプだった。見当外れの方向に、さまよい続けてしまうのだ。
 アリとナメクジは、よく犬の餌入れにたかられて苦労したせい。蚊は、フィラリアという犬猫の病気を連れてくる、など。
 そんな話の中で電車についても説明したので、「きっちりかっちりしたもの」が苦手だと、倉内も十分分かっただろう。
 花の話が倉内の行動を変えたのだと、歩いてホームへ向かう倉内を見て花は気づいた。気遣われているなあ、と。
 ちなみに、倉内の苦手なものを聞いたら、「複雑だし多すぎて答えられない」と言われて、ちょっと笑うことになった。
 多すぎることではなく、「複雑」という言葉が引っかかって、少し突っ込んで聞くと。
「雨に濡れた冬服の匂いとか」と言われて納得した。確かに単純ではない、と。
 その他、「縦に裂かないと開かないお菓子の袋」「ホッケーのゲームで、パワープレイなのに点数を入れられない時」と続き、そこからはアイスホッケーの話になったので、苦手話は終わった。
 要するに倉内の苦手とは、「その場面にならないと発生しない」ものが多いことが分かった。やっぱりこういうことも、個人として話してみないと決して分からないことだ。
 そして倉内もまた、花の苦手な電車のことを理解し、彼女のことを考えて急ごうとはしなくなった。倉内に、ちゃんと個として尊重されていると感じると、胸の中がこそばゆくなる。
 手を貸してもらったり、自然に支えてもらったりというのは、彼が誰にでも自然にすることだと思っていた。けれど、いまこうしてゆっくり歩いていることは、それではないのだ。
 えへへと、花は自分でも気づかない内に笑ってしまった。
「ど、どうしたの、花さん?」
 その笑い声が聞こえてしまったらしい倉内に問いかけられるが、花はへらっと笑ったまま「何でもないです」と答えていた。

 電車が行ってしまった直後のホームは、がらんとしている、待合の席も空いていて、二人でのんびり座って待つことにした。
 うん、と花は思った。次の電車が来るまで少し時間がかかるが、後は帰るだけだ。その間の、こういう何もない時間というものは、彼女は苦手ではない。
「エリーズ、喜んでくれるでしょうか」
 倉内の持つ紙袋を見て花が呟くと、「僕が、保証する」と返された。従兄である倉内のお墨付きに、花はにまっと笑った。
 こうなると、待ち遠しいのが明後日の送別会だ。花は母と一緒に、何か料理を作って持って行こうと思っていると話すと、倉内は自分の母が作りそうな料理を挙げてくれた。かぶらないように、だ。
「何を作るか決まったら、メッセージ送りしますね」
 何がいいかなあと母と悩んでいたので、ありがたい助言だった。参考にして、明日までに料理を決めようと思った。とはいうものの、花も料理は得意というわけではないので、母の助手をして頑張るだけだったが。
「う、うん……楽しみにしてる」
 倉内もまた、よその家の料理に興味があるのか楽しそうだ。確かに家庭料理というものはその家の独特の家風が出る。花は、倉内の家で夏カレーをご馳走になったことがあるが、逆はまだだった。
「が、頑張ります」
 言葉とは裏腹に、あまり期待されても困るなと思いながらも、心だけは込めるので許してくださいと、こっそり呟く花だった。
 そうしている内に、待ち時間も過ぎていた。気がついたら、ホームには人が増えていて、まもなく電車が来るというアナウンスが流れ始める。
 数学の授業と比べて、何倍ものスピードで時間が流れている気がした。アインシュタイン先生も残酷だと、くだらないことを考えながら、花は先に立ち上がった倉内の手に自然に手をかけて立ち上がったのだった。

「この贈り物、花さんに……預けてて、いいかな?」
 花の家への帰り道。
 紙袋を軽く持ち上げて、倉内が言った。
「いいですけど、どうしてですか?」
 倉内の家にあった方が、当日忘れる可能性もないので安心だと花は思っていたのだ。
「ええと、エリーズが、勝手に部屋を漁る時があって、あと……フルールが」
「分かりました、預かります」
 倉内が言わんすることに気づき、花も全力で同意することにした。家の中にはエリーズとフルールという二匹の猫がいるので、明後日まで安全に置いておけるか自信がないと言いたいのだ。
 猫は紙袋に入りたがるし、贈り物を受け取る本人に先に見つけられては意味がない。花は丁重に贈り物を預かることに決めた。
「あ、明後日も、ちゃんと迎えに来るから」
「分かりました、お願いします」
 倉内が来てくれれば、せっかく買ったものも忘れることはないだろうと、花も安心する。
 贈り物の袋を眺め、母と料理を考えて──花の頭の中は、エリーズを含めた倉内家のことでいっぱいになっていく。
「花さんは……な、何か食べたいものない? 母さんに言っとくよ」
「大体何でも大丈夫です。でも、何かおすすめがあれば……」
 自分の家で普段食べられないようなものには、花も興味がある。難しいことを言っては相手も困るだろうから、花は逆に倉内のオススメを聞き出そうとした。
「え? あ、うん……好きなものを挟めるクレープとか、いいかも。苦手なもの、食べなくていいし」
 聞き返されたことに一瞬戸惑った倉内だったが、その返事は花を「おお」と感嘆させるものだった。苦手なものをこっそり避けられる、素晴らしい仕様だったのだ。
「手巻き寿司みたいなものですね……あ、それいいかも」
 日本のものにたとえようとして、花はぱんと手を打った。海苔と酢飯があればあとは何の具でもいいのだ。エリーズが苦手なものは避けられるし、他の人もそうだろう。
「日本とカナダの巻物対決、なんてどうでしょう?」
 別に対決でも何でもないのだが、クレープ対手巻き寿司というのは、何だか微笑ましくて気に入った。クレープがカナダで発明されたお菓子ではないことは知っているが、そんなことはご愛嬌だ。
 何を挟むか、わいわいみんなで話し合うのも、きっと楽しいに違いない。
「た、対決……母さんに言っおくよ」
 花が珍しく熱心に語ったことがおかしかったのだろう。倉内は少し笑った後、そう言った。
「あ、対決は言っちゃ駄目ですよ。別に張り合おうとか、そういうんじゃなくて……」
 倉内が本当にそのまま彼の母に言ってしまいそうで、花は慌てた。「受けて立つわよ、来なさい小娘」と、倉内母に目から光を放ちながら待ち受けられるのは勘弁だった。
「う、うん、大丈夫……」
 そんな花に、ますますおかしそうに倉内が目を細める。
「本当の本当ですよ」
 おかしさのあまりに笑い話として言ってしまうんじゃないかと、いまひとつ信用できずに、花はもう一度念を押した。
「わ、分かった……大丈夫、秘密にするよ」
 困った風な笑いに変えた倉内に、ようやくほっとする花だった。

 そしてまた。
 アインシュタインは、時間の終わりを告げる。
 気がついたら、もう花の家の前。倉内からしっかりとプレゼントの紙袋を預かって、花は彼と別れの挨拶をすることになる。
「今日は楽しかったです」
 疲れることは確かにあったが、倉内が一緒にいてくれたおかげで、良いプレゼントを買うことができたし、本当に楽しかった。
「あ、うん……僕も、楽しかった。ありがとう、花さん」
 そんな彼女に少し照れながらも、彼はいつも通りの別れの挨拶を告げる。
「花さん」という言葉に、個への尊重を再び感じたのは、きっと帰りの駅での記憶だろう。
 だから花も──
「こちらこそ、ありがとうございました、楓先輩」
 ──倉内楓という、場面によって苦手なものを数多く持つ男に対し、花もまた個の尊敬を表した。
 少しだけ倉内が固まったように見えて、でもすぐに嬉しそうにへへと笑って。楽しいままに別れの挨拶の後、彼は帰って行った。

 母と手巻き寿司を相談をした夜。
 花は、日課である倉内のツーブヤキをチェックする。
『外出から帰ったら、フルールがすねていた。昨日から、ちゃんと出かけるからねと何度も言っていたにも関わらず、やっぱりすねている。明後日の従妹の送別会はうちでやるから、フルールもすねたりはしないだろう。フルールは、彼女のことが気に入っているし、きっと喜んでくれる。父さんにカメラ借りなきゃ。フルールが、ベッドに寝転がったら胸の上に乗っかってくる。ああ可愛いかった。駄目だ。まだ混乱してるみたいだ。いろいろ嬉しくておかしい。早く大人になりたくなった』
 倉内はフルールの可愛さに混乱しているのだろうか。何はともあれ、フルールへの愛の不動っぷりだけはよく花にも伝わってきたのだった。