猫 の 帰 る 城






すると、そんな僕を見て真優が笑った。

潤んだ目は少しだけ憐れむように揺れて僕を見上げる。


「どうしたの。もういなくなった人のことだよ、ヒロが怒ることない」


僕のやるせない怒りと動揺は、そのまま目の前の彼女に向けられる。

カクテルグラスを中心に、お互いの目を探り合う。
彼女は笑って、僕は戸惑って。


「…真優は何がしたいんだ」


真優は黙っていた。
僕を真っ直ぐに見つめたまま、口元を引き締めている。


「どうして、こんなことを僕に言うんだ。何の意味がある」


突然バイト先に現れたのかと思うと、小夜子の名を口にする。

その目的がわからなかった。
僕を動揺させて楽しんでいるのか、あるいは、別れた腹いせなのか。


僕が引かないでいると、真優は残った酒を飲み干して、カウンターに目を落とした。


無数の傷が浮かぶ一枚板を眺め、そっと指でなぞってみる。

しばらくの間、無言でそれを繰り返し、おもむろに口を開く。


「…別に、意味なんてないよ。取り立てて何かをしてやろうとか、そんなんじゃない。小夜子さんのことだって、今はどうだっていい。ただ」


伸ばした爪先を板の傷に入れて、思いっきり引く。
がり、という音が鳴った。

もう一度爪先を入れ、また引く。
がり、と音が鳴る。

引っ掻いているようにも見えたが、僕にはえぐっているように思えた。



「…ただ、あんな別れ方をしたから、ヒロのことが忘れられない」


俯いた真優の顔は歪んでいた。

その表情にはっとさせられる。
涙こそ流れてはいなかったが、あの日、僕の頬を打ったときと、同じ顔をしていた。


「ヒロも同じでしょう。自分の気持ちを置いたまま、一方的に相手だけが行ってしまう。忘れようとしてみるけど、思うようにいかない。記憶だけにすがって、終わりが見えない」


今度は僕のこころがえぐられる番だった。

僕は真優に同じことをしていたのだ。
あの雨の日から、僕は真優の気持ちを置き去りにして、小夜子だけを見ている。

残された真優の気持ちに、行き場はない。


目を背けていた自分の冷淡さを突きつけられた気がした。

僕が小夜子の傷から逃れられていないように、真優も僕がつけた傷から逃れられていないのだ。



顔をあげた真優は、笑っていた。

作り笑いではなくて、何か楽しいことを始めようとする微笑み。

おそらくその正反対な顔をしているであろう、僕を見上げていった。


「ねえ、どんなに待っても、小夜子さんは帰ってこない。いつまでも記憶にすがってなんかいられない。それなら、罪滅ぼしにあたしのお願い、きいてくれてもいいんじゃないかな」


「…お願いって」


僕の声はひどくかすれていた。

薄暗い店内のなか、明かりに照らされた真優が笑っている。

それは天からの使者なのか、はたまた地獄からなのか。



「あたしともう一度付き合って」



いまの僕に正当な判断など、できるはずもなかった。