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僕はその日、繁華街の地下にあるバーでグラスを磨いていた。


時刻は十二時を回っている。

終電が近づくとともに少しずつ客が減っていき、照明を落とした店内は若い男女だけになった。
彼らはこちらの存在など気にも留めず、端においやられたテーブル席で、二人きりの空間を楽しんでいる。


店長は店が落ち着くと、煙草を吸いにすぐ裏に引っ込んだ。
穏やかな音楽が流れるなか、僕は労働に疲労した身体を確かめるように、そっと息を吐いた。


今日も長い一日が終わろうとしている。




季節の移り変わりとともに、僕は新しいアルバイトを始めた。


思い立ったことに、特別理由はない。

理由はないが、意味があるとするならば、退屈な講義を終え、ただ帰宅するという日常に飽き飽きしたのが半分。

夜、大して仲も良くない友人に誘われ飲みに出かけてみたり、ひとりきりで部屋にこもって本を読んだりすることが苦しくなってきたのが、もう半分だ。


だからバーテンのアルバイトを選択したことにも、特別理由はない。

ただ、彼女のことを思い出す時間を少しでもなくしたい、それだけだ。


思い出はいつも不意に蘇ってくる。
彼女が好きだったテレビ番組、よく聴いていた音楽や、コーヒーの銘柄、難しい顔をして読んでいた新聞。


そういったものが、不意に僕の目に、耳にとまって記憶が溢れだす。

ひとりでいるとそんなことばかり考えてしまうから、半ば強制的に誰かと関わっていたり、仕事に没頭していれば少しは気もまぎれるだろう、そう思って始めたアルバイトだった。