猫 の 帰 る 城




通りに人影はなくなっていた。
ただ、いくつもの飲み屋の看板が、無性に明るい光を放つだけで、僕たちは通りに二人きりだった。


「わからないって…どういうこと」


小夜子の目には不安の色がはっきりと見えた。
大きな瞳は揺れ、僕から視線をそらすことなく見開かれていた。


「全部だよ。モデルをやるために東京に行くのも、大学を辞めるのも。どうして、当然のことのように言うんだ。もう決まったことみたいに言うんだ。過去の話みたいに言うんだ。…僕にはまったく、理解できない」


僕の声はひどく冷たかった。
自分でも初めて出すような声だった。

小夜子の顔が脅えたのがわかった。

だけどそれはすぐに消えて、自分の意志を理解してくれない僕への苛立ちへと変わる。
小夜子は声を荒げて言った。


「わたしは、本当にこの仕事をしてみたいの。初めてよ、こんなに強く思えたの。頑張りたいって思えたの。信じてみたいって思えたの。これのどこがわからないっていうの?」

「…わからない」

「どうして」

「どうしてそれが大学を辞めることになるんだ」


小夜子の表情が固くなる。
怒りが消え、揺れる瞳で、僕を真正面から見据えて言う。


「だって、そうでしょう。この街にいる限り、両立なんて出来っこないもの」

「そうじゃない。僕が言ってるのは、大学を卒業してからでもいいんじゃないかと言ってるんだ。どうして、いますぐに東京に行かなくちゃいけないんだ」

「そんなの、卒業する理由なんてないからよ。東京に行くのを先延ばしにしてまで、大学に通う理由なんてない。わたしは別に、何かになりたくて大学に通ってるんじゃないもの。このまま惰性で意味のない大学生活を続けて卒業したって、何にも残らないわ。どうせ中途半端になってしまうのなら、わたしはきっぱりと辞めて、好きなことをしたい。信じれることをしたい。それだけ」

「好きなことをして何になるっていうんだ。成功なんて、誰も保障してくれないんだ。人は生活していかなきゃいけない。何もかも失ったときにどうする。その時になって、こんなはずじゃなかったと嘆くのか」


小夜子が息を呑んだ。

僕はその瞬間、しまったと思った。
ここまで言うべきじゃないと、こころの奥底ではわかっていた。

だけどもう、止めることなんて出来なかった。


僕は自分でもわかっていた。
どれだけ正論を述べているように装っても、本当の真意はそこじゃない。


僕はただ―――小夜子を失いたくないだけなのだと。
小夜子が東京に行くことを、黙って受け入れることが出来ないのだと。


そうとわかっていても、僕は止められなかった。
石のように固まってしまったこころは、もう機能などしていなかった。

僕はこころをなくした機械のようだった。
ロボットは、感情のない顔でさらに畳み掛ける。


「誰だってそうさ。ふつうに生きて、ふつうの大学生をして、ふつうに就職するなんて、誰だってつまらないと思ってる。小夜子もおんなじだ。信じれること?確かに信じれるだろうな、まだ何も見えてないから、無限の可能性が広がっているように見えるだろう。だけど、その可能性が成功に結び付くやつなんて、ほんの一部だ。あとのやつらは、無限の世界で一生もがくことになる。小夜子が闇雲に信じてるのは、その漠然とした可能性なんじゃないのか。そんなものを頼りに、本当に全部捨ててしまってもいいのか」