「だけど」
小夜子が僕のシャツを握りしめる。
僕の胸元から、苦痛のため息が漏れる。
かすかに彼女の身体が震えていることに気づいた。
小夜子は大きく息を吸い込み、そっと目を伏せた。
「…だけど、わたしにはわたしの未来があるように、あなたにはあなたの未来がある。あなたはこれまで通り大学に通って、この街で生きて行く。大好きな本を読んで、アルバイトをして、たくさんのことを勉強する。わたしがいなくなっても、ほかの子とキスをするし、セックスもする。恋愛をして、笑ったり泣いたり悲しんだりする。
そうやって大学生活を終えて…いろんなことを経験しても、それでも…。それでももし、わたしの傍にいたいと思ってくれるなら、二年後、卒業したら、迎えに来て」
僕の胸からぬくもりが消えた。
心地よく締め付けられていた僕の胸は、波が引いていくように冷たくなっていった。
…小夜子?
小夜子、きみはなにを言ってるんだ。
小夜子が僕を、もう一度強く抱きしめた。
そうして噛みしめるように、震える声で繰り返し言う。
「愛してる。わたしはあなたを愛してる。傍にいられなくなっても、愛してるから」
…そうだ。
僕も小夜子を愛しているんだ。
僕も小夜子を愛しているんだ。
そうして、小夜子も僕を愛している。
やっと分かり合えたのだ。
お互いがお互いを愛していると。
深く思いあっていると。
分かり合えたのにどうして。
どうして小夜子は、僕の前から消えるんだ。
どうして小夜子は、僕の傍から離れていってしまうんだ。
どうして。
小夜子が「愛してる」と口にする度、僕のこころは痺れていった。
涙が出そうなほど嬉しい言葉なのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。
彼女は僕の胸に顔をうずめ、壊れてしまいそうなほど僕の身体を抱きしめている。
けれど、僕は小夜子の背中に手を回すことさえ出来なかった。
僕は凍り付いたように、小夜子の身体を受け止めることが出来なかった。
こころがはっきりと拒否していた。
繰り返されるのは、どうしてなんだという疑問だけ。
どうして、ひとりで決めて、ひとりで去っていくのだ。
どうして、すべてが真実で、事実になってしまったかのように話すのだ。
僕の気持ちはどうなるんだ。
ようやくわかりあうことができたのだ。
お互いがお互いを愛していると
ようやくわかりあえたのにどうして。
その瞬間にいなくなってしまうのだ。
わたしがいなくなっても、ほかの子とキスをするし、セックスもする?
どうしてそんなことが言えるんだ。
僕はいま、小夜子じゃなければだめなのに。
どうして、そんなことが言えるんだ…。
しかし、小夜子は僕のそんな様子にも気づくことはなかった。
僕の身体を記憶に焼き付けるように、強く強く、抱きしめた。
そうして、かすれる声でこう言ったのだ。
「ごめんね…だけど、ヒロトなら、わかってくれるでしょう?」
