猫 の 帰 る 城




世界が崩れていくのを、僕ははっきりと感じた。

周りの景色が歪み、ぼやけ、遠のいていく。
ただ目の前にいる小夜子の姿だけが確かだった。
確かに、こちらを見つめている彼女の姿だけが。


「…東京?」


かろうじて発することができた言葉は、それだけだった。

正反対に、こころのなかは無数の疑問と衝撃が飛び交っていた。
ざらついた砂嵐が、僕のこころに容赦なく傷をつけていく。
吹き荒れ、とどまるところを知らない。

どうして、なぜ、どうして。
いったい、どうして―――

そればかり繰り返し叫ぶ。
呆然とする僕をよそに、小夜子は淡々と続ける。


「そう。前に東京に行った日があったでしょう。言わなかったけれど、あの時わたし、スカウトされたの。ファッションモデルをやってみないかって」


あの時―――

小夜子が従妹のところへ行くと言って、五日ほど留守したときだ。
そこでスカウトされた…
小夜子が?


「スカウトしてくれたのは、事務所の社長さんだった。声をかけられて、最初は半信半疑だったわ。むしろ疑いのほうが大きかった。そんなことが実際に、自分の身に起きるなんて思っていなかったから。だけど、話を聞いたり、いろいろ調べてみるうちに、ちゃんとした話だってわかったの。自分の事務所に来てくれ、って言われたわ。大手ってわけじゃないけれど、わたしを一人前に育てる自信はあるって、そう言ってくれた」


僕の頭は彼女の話についていけなかった。
事務所?社長?
小夜子はなにを言ってる。


「わたし、この数か月、モデルの真似事みたいなアルバイトをしてたでしょう。始めたきっかけは大したことじゃなかったわ。それでも…なんて言ったらいいかわからないけど、すごくやりがいがあった。大変なことも多かったけど、それだけ、得られるものも大きかったの。そんなことが何度もあって…。最近、本当はちょっと考えるようになってたんだ。もしかしたら、こういう仕事が自分に合ってるのかもしれないって。少しずつだけど、考えるようになってた。そうして、東京に行ったらスカウトされた」


僕は小夜子の手を強く握りしめた。
小夜子も握り返してくれる。
それから僕に、穏やかな笑みを向けるのだ。

だいじょうぶ。
小夜子の目がそう言ったのが僕にはわかった。

小夜子には何の迷いもなかった。
それは手のひらからも、真っ直ぐに僕を見つめる瞳からも充分に伝わってきた。


「だから、やってみようと思うんだ。もちろん甘い考えじゃ出来ないってわかってる。だけど、わたし初めてだったの、あんなに何かをやってみたいと、強く思えたのは。もしかしたら、このタイミングに声をかけてもらったのは、何か意味があるのかもしれない。やってみたいと思う自分の気持ちに、正直になってもいいのかもしれない。この夏休みに、いろいろ考えて、そう思うようになったの。…だから、区切りをつけて、真剣に、向き合ってみようと思う」


小夜子が笑う。
真っ赤な唇は自信に満ち溢れていた。


「…それで、大学を辞めるのか」


ようやく発することのできた僕の声は、ひどくかすれていた。
小夜子と違って、僕のこころは激しく揺れていたのだ。
動揺し、事実を受けとめきれない。

僕は彼女の唇の動きを、一瞬たりとも見逃せなかった。
情けないけれど、僕はまだこころの中で願っていたのだ。
嘘だと言ってくれ、と。

僕はこころのどこかで、「なかなかの演技だったでしょう」と言って笑う彼女を信じていたのだ。

けれど、そんな僕の願いとは裏腹に、目の前の彼女の顔はとても清々しかった。
小夜子はうなずく。

強い意志を目に光らせて、揺るぎなく僕を見つめながら。



「明日、退学届を出しに行こうと思う。夏休みが終わったら東京に行って、向こうで生活する」