猫 の 帰 る 城




今すぐ小夜子の部屋へ帰って、思い切り彼女の身体を抱きしめたい。

僕は笑いながら、そんな衝動にかられた。


一年前の僕は今頃、この後にやってくる素晴らしい時間に胸を躍らせていた。
小夜子の部屋へ向かいながら、僕はまだ見ぬ彼女の裸に思いを巡らせていたのだ。

けれど、いまは違う。
あの日とは違って、僕は小夜子の部屋で何度も夜を過ごしてきたし、何度も朝を迎えてきた。
あの頃、まるで想像しなかった当たり前が、いまここにあるのだ。


目の前には、頬を紅潮させた小夜子が、あの日よりも、もっと艶やかな姿で僕を見つめている。
それまでには触れることすらなかった彼女は、もう僕のものなのだ。

そう考えると、今すぐ部屋に戻って、思い切り彼女の身体を抱きしめたくなった。


店の前でたむろしていた若者が、すぐそばを笑いながら通り過ぎていく。

僕は繋がれた小夜子の手を引いて、「帰ろう」と促した。
が、彼女は僕の手を強く握り、また引き戻した。

小夜子のほうを振り返り、今度は言葉にして言った。


「ほら、帰ろう」


小夜子は動かなかった。

通りの端で、僕らは立ち尽くしていた。
その周りを数人の人が行き交っている。

小夜子が笑う。
声をたてたり、顔いっぱいで笑うのではなく、ふっと柔らかく、唇で微笑む。

目は真っ直ぐと、真剣に僕をとらえて離さなかった。

僕は冗談めかして言う。


「なに、また演技?」


彼女は黙って首を振った。
それから、おもむろに口を開く。


「部屋に帰る前に、話があるの」


生ぬるい風が通りに広がる。
彼女のスカートの裾をかすかに揺らし、吹き抜けていく。

僕の酔いは一気に醒めた。

さっきまででたらめに浮かれていたこころに、冷水をかけられたようだった。
熱は失われ、その冷たさに痺れさえ感じた。

小夜子は笑う。
彼女の手を強く握りしめ、次の言葉を待つ僕に、小夜子が判決を言い渡す。




「東京に行こうと思う。大学は、辞める」