人ごみの中を、手をひかれるがままに歩いていく。
大通りからひとつ外れた道に入ると、そこは飲み屋が軒を連ねる小さな通りだった。
同い年くらいであろう、若者があちらこちらに目についた。
「ここよ」
小夜子が立ち止まる。
立ち止まったすぐ目の前に、飲み屋の看板が光を放っていた。
「ここ…」
「覚えてる?」
忘れるはずがなかった。
看板に大きく書かれた店の名前。
安いと評判のチェーン店の居酒屋。
あの頃の僕らは洒落た店など知らなかったから、手頃に腹が満たせるこの店を選んだのだ。
大学のエレベーターで、まともに話したこともなかった彼女に、突然「飲みに行こう」と誘われた。
僕はその日、小夜子とたくさんの言葉を交わし、彼女という人間を知ったのだ。
「僕が初めて小夜子と飲んだ店だ」
「そう。わたしたちの、初めての、デート」
僕は笑ってしまった。
デートというわりに、ムードがまったくなかったのだ。
ただひたすらしゃべり、笑い、酒を流し込んでいた一年前を思い出す。
懐かしい情景が、いまになっても鮮明に浮かんだ。
あの時にはこんな未来なんて予想できなかったことだろう。
小夜子の傍で夏を過ごすことになるなんて、まったく。
小夜子が僕の手を引く。
彼女の顔にも、どこか懐かしむような笑みがあった。
一年前よりも少し大人びた、美しい笑顔が僕に向けられる。
「行こう」