おいで、でも、来い、でもない。ただいざなわれる、香りだけの甘さに、俺は一歩、坂道の方へ足を進めた。
 仕事があったが、なあに、どうせ俺が遅刻しようと、現場の連中は文句ひとつ言いやしない。
 そんな軽い気持ちだった。

 左手側は商店街へ続く車道だったから、一歩、一歩と坂道を登る度に、喧騒が小さくなる。
 代わりに匂いは甘く優しく、絡まるように強くなる。

 くん、と鼻を効かせれば、やはり、懐かしい。が、なんの匂いかが思い出せない。

 気になった。なったからこそ、坂を登る足に力が入る。

 そして、地平線を望むように坂の向こうが見える――

 直前、

「ようへい!」

 呼び掛けられて、俺は歩を止めた。見れば、金木犀が花咲く塀の向こうから、女性がひょっこり顔を出していた。

「おひさ。なにやってるの、こんなとこで?」