オセロ風景〜坂道と図書室

「東くんという男に、会ったぞ」

 父の晩酌の肴は、それだった。

「え、あの色の白い頭の良さそうな?」

「何だ、母さんも知ってるのか」

「ほら、菜々がこの間、頭をぶつけた時に、付き添ってくれた人よ」

「へぇー」

 二人の視線が、同時に食卓の菜々に集中する。

 こういう時に、子供が一人だと分が悪い。

 菜々には姉がいるのだが、3つ年上で大学に通うため、既に家を出ている。

 二人がかりの視線に、彼女は小さくなりながら、ご飯を少しでも早く口の中に押し込むことに集中した。

「俺は、娘の彼氏と3時間くらい一緒にいたぞ……男の子は、デカイなあ。車が狭くなった気がしたな。いや、変に緊張してハンドル操作、しくじらずにすんで良かった」

「わ、私だってそれくらい一緒にいたわよ。病院で待つ時間、すごく長かったんだから」

 菜々が押し黙っているため、夫婦揃って、東優を1万秒(2時間46分40秒)越えで体験したという、変な自慢合戦になっている。

 しかも、『娘の彼氏』と父親が言うものだから、東先輩と一体何の話をしたのかと、問い詰めたくてしょうがない。だが、父にそんな真似をする訳にもいかなかった。

 この恥ずかしさを、どれほど東先輩にぶつけても、おそらく彼には通用しないのだろう。でなければ、最初から来るはずがないのだから。

「伊藤さん、ありがとう」

 走り始めて、約1万秒後。

 東優は、力を使い果たした菜々に、とろける瞳でそう言った。

 何が良かったのか、彼女にはさっぱり分からないが、彼にとってもその時間は楽しいものだったようだ。

「伊藤さん、君は僕より小さい身体で、他の人に出来ない美しいものを作り上げられる。世界に二つとない、美しい1万秒を見せてくれて、本当にありがとう」

 神々しいものを前にしたかのごとき言葉は、菜々を困らせた。

 彼の中で、自分が随分上に座らされている気がして、お尻が落ち着かなかったのだ。

「先輩……私、普通の人ですよ」

「僕にとっては女神だよ」

 それは、日本人が真顔でするりという言葉ではなかった。

 絶叫しなかった自分を、菜々は褒めてやりたいくらいだった。

「だから……」

 だが、そんな彼女の我慢を知らない東先輩は、少し遠い目をして、晴れ渡る空を見上げてこう言った。

「だから……僕もそんな伊藤さんに、相応しい男にならなきゃね」


 ※


「お前、兄貴に何か言ったのか?」

 12月も目前のある日、東努が菜々に絡んできた。

 雅もすぐ側にいる、放課後の彼女らの教室に、だ。

「え? 何も?」

 菜々は、相変わらず毎日部活で走り、日曜日は長い距離を走っている。

 その日曜日には、たいてい東先輩も来ていたが。

 父とも随分仲良くなったようで、食卓の席で上機嫌な父の様子に、少し嫉妬を覚えるくらいだ。

 最近では、一人だけ仲間はずれを悔しがった母まで車に乗り込んでくる始末。

 彼は、すっかり両親の間で、アイドルのような扱いになっている。

「受験でもないのに、毎日深夜まで勉強に打ち込んでるのは、お前が何か言ったせいじゃないのかって聞いてんだ」

 菜々のシンプルな答えでは、まったくお気に召さなかったらしい。

 努は、具体的な事実を横から滑らせながら、菜々に再度強い言葉で確認してきた。

「それは先輩が、勉強したいからしてるんじゃないの?」

 彼は、一体何を言っているのか。

 菜々は、少し呆れた気分になった。

 雅は、二人の会話を、うっすらと微笑みながら見ている。もはや、彼女が東努に介入してくることはない。

 菜々が、毎回ちゃんと対応出来ているからだ。

 努も努で、彼女らを貶めるような暴言は吐かなくなった。吐いたら二人の女にどうされるか、身を持って知ったからだろう。

「あんなに毎晩、ガツガツ勉強する必要はないだろう?」

 なおも食い下がる努に、彼女は困った笑みを浮かべた。

 東先輩に、ではない。

 この弟くんを見ていると、こんな表情が出てきてしまったのだ。

「だから……先輩が、ガツガツ勉強したいと思ってるんでしょ?」

 東先輩は、彼なりの1万秒の使い方を見つけたのだろう。聞く限りでは、ゆうにその時間は越えているようだが。

「兄貴は、身体が弱いんだぞ。倒れたらどうすんだ」

 非難めいた言葉に、黙ったままの雅がくすっと笑った。

 菜々も、つい笑ってしまった。

「そういうの……」

 菜々の唇の動きを、雅もその唇を開いて、まったく同じ三文字の言葉を、音もなくなぞる動きだけをした。

「そういうの……『過保護』って言うんだよ」

 女二人の唇は──瞬間湯沸かし器のごとき東努を、作り上げたのだった。


 ※


「遅くまで、勉強してるんですか?」

「努か……」

「はい。『過保護』って言っときました」

 帰りの坂道で、菜々と東優はそんな会話をかわした。

 努の襲撃があった時は、彼に助けの電話は入れないが、こんな風に一応報告をしている。それを、東先輩が望むからだ。

「それは、伊藤さんに『ありがとう』と言うべきかな。僕の口からは、それだけは言えないからね」

 昔のことを思い出したのか、彼は苦笑しながら菜々の頭をぽんぽんとしてくれた。

「僕はこの通り、身体を使うより頭を使う方が合ってるからね。その道を究めることにしたんだよ」

 菜々とは違う道を指し、東先輩は歩き始めたのだ。

 けれど、菜々は不思議と、彼と違うところに向かっている気がしなかった。

 まったく違う方向に、離れている気がしないのは、東優という男が、菜々を見ていてくれるからだろうか。

「そんなことより」

 自分の勉強を『そんなこと』呼ばわりした彼は、菜々に優しい視線を下ろす。

 この話は、ここでおしまい──そういうことなのだろう。

「来週の日曜日は、市民マラソンだね。お父さんたちと応援に行くよ」

 どれほど勉強にのめりこんだとしても、東先輩は日曜日の彼女の1万秒を大事にしてくれる。

 それがきっと、彼が離れていく気がしない、一番の要因なのだろう。

 自分が好きで走ってきたはずの道中に、知らない間に東優が立っていた。

 彼は一緒に走ることは出来ないが、菜々の側にいてくれるのをいつも感じる。

「ありがとうございます。嬉しいです」

 感謝の言葉というものは、何と陳腐なのだろうかと、菜々はもどかしく思う。嬉しさの半分も、彼に伝えられている気がしない。

「……」

 それが不満で、菜々は一度黙り込んだ。

「伊藤さん?」

 彼女の不思議な様子に、彼は怪訝な言葉を投げる。

 菜々は、顔を上げた。

 思い出そうとしていたのだ。

 彼と出会ってから読んだ太宰治は、いまや3周目である。

 図書室に行って、彼女はまた1巻から借りていたのだ。

 東先輩ほどではないが、彼女も太宰の小説を深く読み込んできた。

 そんな中から。

「『信じられているから走るのだ』」

 菜々は──やっぱり、『走れメロス』を選んだ。

 東優が最初に勧めた、走る彼女に一番相応しい物語のセリフを、菜々はその手に掴み上げたのである。

「ああ……」

 菜々の言葉は、彼に届いたのだろうか。

 幸福なため息の音を、彼女は聞いた。

 そのため息の後。

「『ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい』」

 菜々の言葉の数百倍、なめらかな言葉が彼の唇から流れ出す。

 美しい、文字の羅列。

 気が狂ったかと言われていることさえ、心地良いと思ってしまう、心のこもった言葉だった。

「ゴールした君に、僕はマントではなくウィンドブレーカーを持っていくよ。君の裸体を、皆に見られるのは口惜しいからね」

 そして、先輩は何を想像したのか、くすくすと笑い始める。

「ランニングとパンツは着てます! 裸体じゃありません!」

 物語の最後のセリフに、菜々は反論しながら、メロスと同じように赤面してしまったのだった。



 時は多く流れた。

 伊藤菜々は、実業団のマラソンランナーとなった。

 東優は、国文学者となった。

 どれほど時を重ねても、菜々の肌は黒かったし、彼の肌は白かった。

 彼女は平地も坂道も走り、東は本に埋もれた。


 そして、伊藤菜々は──東菜々となった。


 彼女にとって問題とは、うるさい小舅(こじゅうと)が一人いることだけだった。



『終』