オセロ風景〜坂道と図書室

「伊藤さん、週末は部活?」

 金曜日の帰り道のこと。

 東先輩は、そう問いかけてきた。

「土曜日は、部活です。日曜日は……ええと、部にはお休みをもらうようにしてます」

 曇り空を見上げながら、菜々は週末の予定を頭の中でおさらいした。

「お休み?」

 怪訝に復唱されて、彼女はそこではっと気がついた。

 この一週間、ドタバタしすぎていて、東先輩に言おうと思っていたことをすっかり忘れていたのだ。

「日曜日は、個人的に長い距離を走ろうと思って、部とは別にしてもらってるんです」

 1万メートル級ではなく、フルマラソン用の身体を作っていくためには、実践でその距離を走るしかない。

 先週覚えた苦しさと気持ちの良さを思い出して、菜々は照れ臭くなった。

「東先輩のおかげです。ありがとうございました」

 その照れ臭さを、サッカーボールのように足元で蹴り蹴りしながら、菜々はやっとそれを東優に言うことが出来た。

「……僕の? 何かしたかな?」

 記憶をたどってみたが、類似の検索は出来なかった──そんな表情で、彼は横を歩く菜々を見下ろす。

 確かに、東先輩は何かしたわけではない。

 いや、したと言えばした。

 彼がしたのは。

「東先輩が、私に太宰治を読ませてくれたおかげです」

 自分を振り返らせる痛い言葉の数々を、この作者は菜々の目の前に突き立てていったのだ。

 そんな中、彼女の心を一番揺さぶったのは、彼が口にした『黄金風景』の一節。

 あれは、確実に菜々にトドメを刺した。まだ、この身に深く刺さったままである。

 それを抜くには、菜々にはもはや走るしかなかったのだ。

「太宰……」

 複雑な表情で、東先輩は彼の名を呼ぶ。

「私、自分が『挫折』してたことを、今までずっと見ないようにしてたんだと……思います。負けた時、『ああ、負けた』で終わってしまってたんです。どうして『負けたくない』って思わなかったんだろうって、今になってようやく……鈍いんですよね、私、あはは」

 自分の見たくない過去は、やっぱり言葉にすると胸が痛い。

 でも、こういう風に照れ隠しの形でも、笑いながらでも、口に出来るようになったことだけは、菜々は良かったと思っていた。

「一番好きなマラソンと、ちゃんと向き合うことが出来たのは……東先輩がいてくれたおかげです。ありがとうございました」

 痛くない、痛くない。

 チクチクする菜々の中の疼きを振り切って、彼女は東先輩に笑顔を向けた。

 本当に、この人に出会えてよかった、と。

 痛くても、昔の自分を越えるための道に、向かえるようになったのだから。

「……」

 そんな菜々を、彼は瞳を細めて見つめるのだ。

 弱弱しい外灯の下、切ない艶を含んだ色が、彼の瞳の中を瞬いている。

「……伊藤さん」

「はい?」

 しばらくの沈黙をへて、ようやく東先輩は言葉を紡いだ。

「手を、つないでいいかな? すごく、つなぎたくなった」

 唐突に、菜々の方の空いている手を、彼女に差し出してそう言った。

 へ?

 そんな話をしていただろうか、と菜々は考えてみたが、やっぱりどう考えてもそれは『唐突』だった。

 そして、当然のごとく、菜々は焦った。

「え、あ、わ、私……手汗かいちゃうから……」

 気がつけば、色気もへったくれもない発言で、逃げ腰になっている。

 そんな彼女の手を。

「一番好きな僕とも、ちゃんと向き合って欲しいよ」

 とてつもない言葉と共に、東優は勝手に握ってしまった。

 あ、あ、あっ。

 優しくも強い感触に手を包まれて、菜々は身も世もなく足をもつれさせた。

 長距離さえも走り抜ける足だというのに、突然彼女に反逆を始めたのだ。

 死ぬ死ぬ、死んじゃう!

 言葉と感触の恥ずかしさに、頭には血が昇り、心臓が破裂しそうなほど痛い。

 そんな中、先輩が何か言っているが、彼女に聞き取れるはずがなかった。

 その後も、ずっとそんな感じで。

 色々話をしたはずが、菜々は何も覚えてはいられなかったのだった。


 ※


「おはよう」

 そして、日曜日の朝早く──菜々は、覚えていなかった自分を死ぬほど後悔することとなる。

 菜々のマラソンコースのスタート地点に、東先輩がいたのだ。

 この場所のことや時間のことを、彼が知っているはずがない。あの時の菜々が、覚えていない間に、自分でしゃべったに違いないのだ。

「あ、あ、東先輩! こここここここ、バスないですよ!」

『こ』は2つでよかったというのに、菜々の唇は大出血サービスで数多く吐き出してしまった。

「母に送ってもらったんだよ……突然すみません。菜々さんの走っている姿を見たくて」

 先輩は、途中から言葉を丁寧な色に変え、菜々ではなく、菜々の父の方を向き直った。

「あ、いや、その」

 父が、ひどく狼狽しているのを、菜々は見た。

 こんな姿は、一度も見たことがない。母とは別の意味で、父も東優という人間に戸惑っているのだ。

「あ、あの……学校でお世話になってる東先輩」

 慌てて、菜々は父に紹介した。

「東優です、よろしくお願いします」

 何の戸惑いもないのは、ここでは彼一人だ。

「あ、ああ、菜々の父だ、よろしく。先輩ということは、陸上部なのかね?」

 目を白黒させている父が、菜々に助けを求めている。

 これはどういうことなのかと、視線がそれを痛いほど訴えてきているのだ。

「えあっ!? ち、違うよ、東先輩は図書部で……ええと、でも、東先輩のおかげで、もう一回ちゃんとマラソンしようって、だから、その……」

 助けを求めたいのは、菜々の方である。

 結局、親子二人、東優という男に動揺しまくるだけだった。

「わ、分かった……いや、分からんが分かった。いいからお前はアップをしていろ」

 煮えかけている娘に、気づいてくれたのだろう。父は、彼女を少し離れたところで追いやった。

 そうすると、自然に父と東優が一緒にいて、話をする形になるわけで。

 な、な、何を話してるのー!?

 逆に、菜々は気になってしょうがない。

 耳をダンボにするが、二人とも小さな声で話しているのだろう。それに、ちょいちょい二人の視線がこちらに来るので、慌てて菜々は大袈裟に身体をほぐし始めた。

 五分ほど、そんないたたまれない時間が過ぎた後。

 東先輩が、菜々の方へと近づいてくる。

 まだ心臓がどきどきしたままの彼女の前に、彼は立って、こう言った。

「走っている間だけは、僕のことを忘れていいよ。伊藤さん……全部忘れてゴールまで走っておいで」

 言葉は静かに。

 声は優しく。

 最後に、彼はこう言った。


「1万秒後に、また会おう」