オセロ風景〜坂道と図書室

 翌日の水曜日。

 登校した菜々は、自分の教室でクラスメートから、生暖かい視線を受ける羽目となっていた。

 彼女に視線は向けられたまま、ひそひそと何か囁かれ続けているのだ。

 それは、特に女子の間で顕著だったが、男子も無言の視線をこちらに向けてくる。

「おはよう、悪女」

 キラキラにさわやかな笑顔で、雅が遅れて登校してくる。

「おはよう……って、悪女?」

 つまらなさの真逆の表情に、菜々は身を引きながらその言葉を投げ返した。

「そう。東兄弟を手玉に取る悪女……いい響きよね」

 うっとり。

 雅の価値基準は、時々難しい。

 いや、それ以前に、彼女は何と言ったのか。

『東兄弟を手玉に取る』

 菜々の頭の中に、優と努の白黒兄弟がカットインした。

「弟にお姫様だっこされて、兄と一緒に早退したなんて……面白すぎて……もうね」

 こらえきれないように、雅は心行くまで菜々の面前で高笑いしてくれる。

 あ、ああ。

 たらぁっと汗をかきながら、ようやく菜々は昨日の自分の出来事を全部思い出したのだ。

 東先輩との話が濃厚過ぎて、すっかりその前の努の事件を忘れていたのだ。

 確かに、あの事象だけを見れば、そんな噂が立ってもおかしくないだろう。

 がっくりと、菜々は肩を落とした。

 周囲の生徒は、菜々が雅の言葉に何と答えるのか、興味津々で耳ダンボしているのが分かる。

 下手なことを言うと、また訳の分からない噂を振りまかれてしまうだろう。

「あの『トウド』にお姫様だっこされるなんて、余程のことがあったんでしょ? いいわよ、別に説明しなくったって。推理するだけで、十分おなかいっぱいだわ」

 菜々の恥ずかしい出来事も、彼女にとってはただの推理の種でしかないようだ。

 その答え合わせにも、別に興味はないのだろう。

 雅の一方的な言い様に、周囲ががっくりと失望するのが分かった。どうしてそこでもっと突っ込んで聞かないんだと、みんな思っているのだろうが、女傑雅には恐ろしくて誰も言えないはずだ。

「頭打ったの。それで、病院行ってきただけ」

 菜々は、とりあえず昨日の出来事に(少なくとも努については)、色気は含まれていないことを証明したくて、それだけは言った。

 周囲は一瞬色めきたったが、彼女はつまらなそうな目になる。

「言わないでいいっていったじゃない」

「何か気持ち悪くて」

 雅の常套句である『気持ち悪い』は、菜々にとってはこういうタイミングで使うべき言葉だ。

「気持ち悪いのは、私の方よ。そんなくだんないことの説明より、私に言うことはないの? それとも、頭を打って、大事な使命は忘れてしまったの?」

 本家雅のそれが飛び出し、菜々はうひっと背筋を冷たくした。

 彼女を生き物にたとえるなら──蛇かもしれない。

 雅の言わんとしていることは分かるが、まだ周囲の聞き耳のある中で、それを告げるのはとても無理だ。

 しかし、馬鹿正直な言葉でなければ、何とかなるのかもしれないと、菜々は昨日強く打ちつけた頭で考え付いた。

「ええと……捕獲しました」

「でかした!」

 半秒の間もあけず、即座に彼女の輝く瞳と言葉が返される。

 異人さんなら、きっと親指を立ててくれたに違いないタイミングだ。

 晴れやかに美しい笑みを浮かべ、満足しきった雅は自分の席へと帰って行った。

 その背中には、音符が飛び交っているのではないかと思えるほど。

 菜々の幸せを、彼女は存分に満喫してくれているのだ。

 えへ。

 その背中を見ていると、菜々まで嬉しくなってしまう。

 彼女は、『どうでもいい』と思えない三人を、手に入れることが出来たのだ。

 最高の友人である雅。

 許し合わない相手である東努。

 そして。

 苦しいほど好きになってしまった、東優という男。

 それぞれ、意味も色も違うが、かけがえのない人となった。

「ああ、そうそう」

 自分の席に行った雅が、軽い足取りで再び戻ってくる。

 顔が下がり、彼女の唇が菜々の側に寄せられた。

「『トウド』の好きな女、教えようか? 戦う時の武器として、使えるかもよ?」

 吐息は、悪魔的な艶を帯び、菜々の弱い心をくすぐる。

 だが。

 あっ。

 昨日頭を打ったことが、逆に作用したのだろうか。

 雅にそう言われた瞬間、菜々は閃いてしまった。脳裏でバチッと、火花がスパークしたのである。

「美術部の……木下先輩?」

 呆然と、菜々はそれを言葉にしていた。

「あら、なんだ……知ってたのね」

 その言葉は、つまらなそうではなかった。

 唇を少し尖らせた後、雅はふふふと笑う。

 そんな静かな雅と対照的に、菜々の頭の中ではわあわあとうるさい自分の声が響き渡っていた。

 努のことを、ブラコンだとは思っていたが、その根の深さをそこに見た気がしたのだ。

 兄である優が好きな人だから、努がその人を好きになったとまでは言わないが、その後がいけない。

 彼は、自分の好きな女性を、頑として兄の恋人として隣に置き続けようとしていたのだ。

 本来であれば、自分自身で手に入れるべき相手だというのに、だ。

 一体、彼の恋心はどこへ走って行っているのか。

「私……東君とは、本当に理解し合えないと思う」

 つくづく、菜々はそう思い知ったのだ。

 すると、雅はますます笑みを深くするではないか。

「理解し合えないことを『理解』するのって、ぞくぞくすると思わない?」

 傾げた彼女の首を、さらりと黒髪が流れる。

「普通は、理解し合えないことを『嫌悪』するのだもの。危なかったわね、菜々。ほんと、危なかった」

 ふふ、ふふふふ。

「出会う順番が、入れ替わってなくて、本当に良かったわね」

 くるりとスカートを回し、雅は踊り出しそうなほど浮かれた足で、今度こそ席へと戻って行った。

 タララ、タ、タタタ。

 彼女の足取りに、菜々は脳裏で『花火』のタップを思い出す。

 音こそ楽しげではあるが、放蕩兄に振り回される妹の話だ。

 病気の兄に振り回される弟の話ならば、菜々のすぐ近くにある。

 東優という人間に縛られすぎた男は、そこから解放されるのが幸せであるはずなのに、本人はちっともそうは思っていない。

 不毛だ。

 理解は出来ない菜々だったが、それだけは強く感じたのだった。


 ※

「久しぶりに兄弟ゲンカをしたよ」

 帰り道。

 東先輩は、部活帰りの菜々を待っていてくれた。

 図書部員である彼は信用があるのか、責任を持って戸締りをすることを約束に、図書室で居残りをしているという。

 待ってもらうのは心苦しいのだが、東先輩が「静かで勉強もはかどるから都合がいいよ」と言ってくれたので、彼女はえへへと笑っておくことにした。

「努は僕と似て、頑固だからね。お互い折れないから、ケンカは続行中だよ」

「はあ、そんなものですか」

 男兄弟というものを、菜々は知らない。

 だから、二人がどういうケンカをしているのか、想像も出来ないのだ。

 殴り合うことだけは、きっとないだろうが。

「もし、また努が伊藤さんに絡んできたら、僕のケイタイに連絡していいからね」

 ぎょっとすることを言われ、菜々はどきどきした。

「で、電話なんか、しませんよ、そんなことで」

 努とやりあう方法を、彼女も何となく会得した気がする。相手に気遣いをしなくていいというのは、気楽なものだ。

 だから、そんなくだらないことで、東先輩の手を煩わせたくなかったし、努にいちいち彼に泣きつく弱虫だと思われたくもなかった。

 そんな彼女の顔を、東先輩はじっと見つめる。

 そして。

「僕を……頼って欲しいんだよ」

 寂しげな瞳と唇にそんなことを言われたら──菜々は墜落するより他、なかったのだった。