いつもは別れの場所になる総合病院で、菜々はCTスキャンなる装置で頭の中身を見られた。幸いにして、何の問題も発見されることもなく、彼女はようやく解放されることとなる。
病院へ行く途中で、菜々は母親に電話をするように東先輩に言われた。
保険証も必要だったし、怪我のことを説明しないわけにもいかなかったからだ。
母親と病院で落ち合った時、東先輩は本当に申し訳ありませんでしたと、何度も彼女の母に頭を下げた。
怪我の原因は自分だと言い、彼は弟のことは何ひとつ口に出さなかった。
そんな先輩の姿に、胸がキュンとしてしまったのは、菜々一人の秘密だったが。
「おほほほ、この子は丈夫なだけが取り柄だから、大丈夫よ」
何もかも不自然な母の反応に、菜々はうろんな目で見てしまった。
おほほほ、なんて言葉が母親の口から出たところなんて、いままで一度もない。
そんな、保護者同伴という環境の中、退屈すぎる病院での長い待ち時間を、先輩はずっと待っていてくれた。
母が来たので、もう大丈夫ですと言ったのだが、彼はそこにいてくれたのだ。
ようやく、母を含めた三人で病院の玄関を出た後、東先輩はもう一度「本当にすみませんでした」と頭を下げた。
外は、すっかり夕方だった。
「お母さん、ありがと。ちょっと先に帰ってもらってていい?」
ここまで付き合ってもらった母に心苦しいところはあるものの、菜々は彼に見えないように、小さく両手を合わせて懇願した。
「あー、はいはい。お邪魔虫は帰りますよ。せっかく出てきたから、スーパー寄ってくるわ。ええと、東くん、だっけ。今日はありがとうね……じゃあお先に」
「わざわざ、ありがとうございました」
東先輩は、最後まで礼儀正しい堅苦しさを崩さなかった。
「先輩、少し話をしていきません?」
二人で、彼女の母が帰っていくのを病院の敷地内から見送りながら、菜々はまた胸の中にどきどきする気持ちが浮き上がってくるのが分かった。
「時間をくれて、ありがとう。中庭にベンチがある……そこに行こうか」
先輩は、やっと安心したように吐息をこぼした後、病院の中庭に菜々を案内してくれた。
さすがは、というと失礼かもしれないが、彼にとってはこの病院は、庭みたいなものなのだろう。
まだ夕日の影に侵食されきっていないベンチに、彼は菜々を座らせてくれた。
その横に、静かに先輩も腰掛ける。
ち、近い。
べったりくっつくほどではないが、それでも近く感じる距離だ。
女同士なら気にもならない距離が、東先輩だと思うと心臓が痛くなってくる。
「聞こえるだろう?」
「え?」
菜々の心臓の音でも聞かれたかと思って驚くと、先輩は軽く視線を後方へと投げる。
それを追いかけると、すぐに分かった。
子供の甲高くはしゃぐ声が、きゃいきゃいと聞こえてくるのだ。
放課後の小学校のグラウンドで、子供たちが遊んでいるのだろう。
たった4年前、菜々はそこの中に混じっていたのである。
高校生というと、大人の一歩手前というイメージがあるが、小学生とその程度の年月しか差はないのだと強く感じた。
「ほんと、すぐ側だったんですね」
健康な人間の視界には、病院は入らない。
あることは分かってはいるものの、興味が向くことはないのだ。
菜々は、小さい頃は特に健康優良児だったため、病院とは無縁の人生を送ってきた。
その真逆の道を歩いてきた男が、いま彼女の隣にいる。
「そう、だから、伊藤さんが、多分僕の初恋の相手だったよ」
夕日の色に染まった肌で、東先輩はとんでもないことを口にする。
頭が煮えたぎってしまいそうで、菜々は己に水をぶっかけるつもりで、努の言った言葉をバケツ代わりに掴んでしまった。
「で、でも、東先輩は、付き合ってた人がいたんですよね?」と。
その時の、彼の顔と言ったら。
何ともバツが悪そうに、その大きな手で自分の顔を一度覆ってしまった。
「努だな……」
唇の中で、小さく呻く。
今日、家に帰ったら、きっと努は兄に相当絞られることだろう。
その点については、もはや菜々は気にしないことにした。お互いの立ち位置を理解した今、彼に同情するのは、逆に失礼だろう。
「うん、付き合ってた……4月までね。振られたのは、僕だよ」
その手を、自分の顔からもぎはがし、先輩は微妙な表情で夕焼けの空を見上げた。
「『誰にでもいい人は嫌い』だそうだ」
別れの理由を聞かされて、菜々は心のどこかで少しだけ納得した。
その気持ちは、分かる気がしたのだ。
図書室を利用していただけの雅の名を知っていたり、彼女の探している本を取りに行ったりする姿を見て、菜々は羨ましいと思った。
自分にしてくれたことは、特別でも何でもなかったのだと、彼女はあの時理解したのだから。
男子に優しくされ慣れていない人には、誤解されることも多いのではないか。
ということは。
ここで菜々が、東先輩に好きだと告げて付き合うようになったとしても、それと同じ思いを、これから何度となく味わうことになるだろう。
それこそ、今日先輩の言った『嫉妬』というものを、彼女は持て余すことになるのだ。
未経験のその世界は、菜々をたじろがせる。
「幻滅されたかな……」
夕暮れに吸い込まれる、東先輩のため息。
「げ、幻滅なんかしてません……ただ」
慌てて、菜々は彼の言葉を否定する。
「ただ……私も、みんなに優しい東先輩を見たら……嫉妬しちゃうんだろうなって……そう、思います」
空から、視線が降りてくる。
横に座る菜々の方に。
その視線を頬に感じないようにしながら、菜々は膝の上で作った拳に、視線を集中させていた。
「私は、頭も良くないし、女の子として誇れるところは何もないし、東先輩に好きだって言ってもらえたのだって、いまでも夢みたいで、私が小学生の時のことを、ずっと美化してただけじゃないのかなって思ったり……」
支離滅裂だった。
自分でも、それが分かっていても修正出来ない。
これが授業なら、きちんと自分の言いたいことをまとめなさいと怒られるレベルだ。
そんな菜々の頬の上を、東先輩の視線が這う。
這っているのが分かるから、なおさら早口になって支離滅裂具合がひどくなる。
その言葉が、ついに尽きた時。
「『お前はきりょうがわるいから、愛嬌(あいきょう)だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘(うそ)がうまいから、行いだけでもよくなさい』」
彼は、静かな声でそう言葉を綴った。
一瞬、菜々のことを言っているのかと思ったが、違うとすぐに分かった。
太宰の本の、確か1巻にあった『葉』の一節である。
「これが……僕だよ」
菜々が、思わず彼を見上げてしまう瞬間だった。
「僕が、病気とともに克服しようとした思いなんか、僕の生まれるずっと前に文字にしてしまっているんだから、太宰はひどい男だよ」
目が、合った。
その目の色は、寂しさと気恥ずかしさが、同じほどの量で混合されている。
「先輩は、器量悪くなんかないです」
「こんなに色白で痩せていて体力もないのに? 僕は、男として持ちたかったものを、持つことは出来なかったんだよ」
彼は、自分の腕を持ち上げて眺めながら呟く。
菜々の胸が、ズキンと痛んだ。
「頼りがいのある男にはなれないのだから、せめて優しい男くらいにはなりたかった」
東優という男のコンプレックスに、いま、彼女は触れている。
数多くの選択肢の中から、彼は選び取ることは出来なかった。
限定された道の中から、東先輩はいまの自分を作り上げたのだ。
菜々の胸が、ぶわっと膨張したのが分かった。
物理的にではなく、心理的に。
その膨らんだ内側が、東優という男がいっぱいに埋め尽くされる。
それでも入りきれず、はみ出してしまそうなかけらを、ぎゅうぎゅうに抑え込まなければならないほど。
不安なのは、彼も一緒なのだ。
自分の欠点を口惜しく思うのは、菜々だけではないのだ。
それが垣間見えて、彼女は前よりももっと、東優を愛しく思った。
「あ、東先輩……私……」
その感情に突き動かされ、菜々はただただ彼を見上げる。
「私……私……」
頭に血が昇りすぎて、ぶつけた後頭部がズキズキと酷く痛む気がした。
しかし、その痛みこそが、全て現実なのだと菜々に教えてくれる。
「私……東先輩のこと……好き、になっても、いいですか?」
なのに。
菜々の言葉は──往生際が悪かった。
病院へ行く途中で、菜々は母親に電話をするように東先輩に言われた。
保険証も必要だったし、怪我のことを説明しないわけにもいかなかったからだ。
母親と病院で落ち合った時、東先輩は本当に申し訳ありませんでしたと、何度も彼女の母に頭を下げた。
怪我の原因は自分だと言い、彼は弟のことは何ひとつ口に出さなかった。
そんな先輩の姿に、胸がキュンとしてしまったのは、菜々一人の秘密だったが。
「おほほほ、この子は丈夫なだけが取り柄だから、大丈夫よ」
何もかも不自然な母の反応に、菜々はうろんな目で見てしまった。
おほほほ、なんて言葉が母親の口から出たところなんて、いままで一度もない。
そんな、保護者同伴という環境の中、退屈すぎる病院での長い待ち時間を、先輩はずっと待っていてくれた。
母が来たので、もう大丈夫ですと言ったのだが、彼はそこにいてくれたのだ。
ようやく、母を含めた三人で病院の玄関を出た後、東先輩はもう一度「本当にすみませんでした」と頭を下げた。
外は、すっかり夕方だった。
「お母さん、ありがと。ちょっと先に帰ってもらってていい?」
ここまで付き合ってもらった母に心苦しいところはあるものの、菜々は彼に見えないように、小さく両手を合わせて懇願した。
「あー、はいはい。お邪魔虫は帰りますよ。せっかく出てきたから、スーパー寄ってくるわ。ええと、東くん、だっけ。今日はありがとうね……じゃあお先に」
「わざわざ、ありがとうございました」
東先輩は、最後まで礼儀正しい堅苦しさを崩さなかった。
「先輩、少し話をしていきません?」
二人で、彼女の母が帰っていくのを病院の敷地内から見送りながら、菜々はまた胸の中にどきどきする気持ちが浮き上がってくるのが分かった。
「時間をくれて、ありがとう。中庭にベンチがある……そこに行こうか」
先輩は、やっと安心したように吐息をこぼした後、病院の中庭に菜々を案内してくれた。
さすがは、というと失礼かもしれないが、彼にとってはこの病院は、庭みたいなものなのだろう。
まだ夕日の影に侵食されきっていないベンチに、彼は菜々を座らせてくれた。
その横に、静かに先輩も腰掛ける。
ち、近い。
べったりくっつくほどではないが、それでも近く感じる距離だ。
女同士なら気にもならない距離が、東先輩だと思うと心臓が痛くなってくる。
「聞こえるだろう?」
「え?」
菜々の心臓の音でも聞かれたかと思って驚くと、先輩は軽く視線を後方へと投げる。
それを追いかけると、すぐに分かった。
子供の甲高くはしゃぐ声が、きゃいきゃいと聞こえてくるのだ。
放課後の小学校のグラウンドで、子供たちが遊んでいるのだろう。
たった4年前、菜々はそこの中に混じっていたのである。
高校生というと、大人の一歩手前というイメージがあるが、小学生とその程度の年月しか差はないのだと強く感じた。
「ほんと、すぐ側だったんですね」
健康な人間の視界には、病院は入らない。
あることは分かってはいるものの、興味が向くことはないのだ。
菜々は、小さい頃は特に健康優良児だったため、病院とは無縁の人生を送ってきた。
その真逆の道を歩いてきた男が、いま彼女の隣にいる。
「そう、だから、伊藤さんが、多分僕の初恋の相手だったよ」
夕日の色に染まった肌で、東先輩はとんでもないことを口にする。
頭が煮えたぎってしまいそうで、菜々は己に水をぶっかけるつもりで、努の言った言葉をバケツ代わりに掴んでしまった。
「で、でも、東先輩は、付き合ってた人がいたんですよね?」と。
その時の、彼の顔と言ったら。
何ともバツが悪そうに、その大きな手で自分の顔を一度覆ってしまった。
「努だな……」
唇の中で、小さく呻く。
今日、家に帰ったら、きっと努は兄に相当絞られることだろう。
その点については、もはや菜々は気にしないことにした。お互いの立ち位置を理解した今、彼に同情するのは、逆に失礼だろう。
「うん、付き合ってた……4月までね。振られたのは、僕だよ」
その手を、自分の顔からもぎはがし、先輩は微妙な表情で夕焼けの空を見上げた。
「『誰にでもいい人は嫌い』だそうだ」
別れの理由を聞かされて、菜々は心のどこかで少しだけ納得した。
その気持ちは、分かる気がしたのだ。
図書室を利用していただけの雅の名を知っていたり、彼女の探している本を取りに行ったりする姿を見て、菜々は羨ましいと思った。
自分にしてくれたことは、特別でも何でもなかったのだと、彼女はあの時理解したのだから。
男子に優しくされ慣れていない人には、誤解されることも多いのではないか。
ということは。
ここで菜々が、東先輩に好きだと告げて付き合うようになったとしても、それと同じ思いを、これから何度となく味わうことになるだろう。
それこそ、今日先輩の言った『嫉妬』というものを、彼女は持て余すことになるのだ。
未経験のその世界は、菜々をたじろがせる。
「幻滅されたかな……」
夕暮れに吸い込まれる、東先輩のため息。
「げ、幻滅なんかしてません……ただ」
慌てて、菜々は彼の言葉を否定する。
「ただ……私も、みんなに優しい東先輩を見たら……嫉妬しちゃうんだろうなって……そう、思います」
空から、視線が降りてくる。
横に座る菜々の方に。
その視線を頬に感じないようにしながら、菜々は膝の上で作った拳に、視線を集中させていた。
「私は、頭も良くないし、女の子として誇れるところは何もないし、東先輩に好きだって言ってもらえたのだって、いまでも夢みたいで、私が小学生の時のことを、ずっと美化してただけじゃないのかなって思ったり……」
支離滅裂だった。
自分でも、それが分かっていても修正出来ない。
これが授業なら、きちんと自分の言いたいことをまとめなさいと怒られるレベルだ。
そんな菜々の頬の上を、東先輩の視線が這う。
這っているのが分かるから、なおさら早口になって支離滅裂具合がひどくなる。
その言葉が、ついに尽きた時。
「『お前はきりょうがわるいから、愛嬌(あいきょう)だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘(うそ)がうまいから、行いだけでもよくなさい』」
彼は、静かな声でそう言葉を綴った。
一瞬、菜々のことを言っているのかと思ったが、違うとすぐに分かった。
太宰の本の、確か1巻にあった『葉』の一節である。
「これが……僕だよ」
菜々が、思わず彼を見上げてしまう瞬間だった。
「僕が、病気とともに克服しようとした思いなんか、僕の生まれるずっと前に文字にしてしまっているんだから、太宰はひどい男だよ」
目が、合った。
その目の色は、寂しさと気恥ずかしさが、同じほどの量で混合されている。
「先輩は、器量悪くなんかないです」
「こんなに色白で痩せていて体力もないのに? 僕は、男として持ちたかったものを、持つことは出来なかったんだよ」
彼は、自分の腕を持ち上げて眺めながら呟く。
菜々の胸が、ズキンと痛んだ。
「頼りがいのある男にはなれないのだから、せめて優しい男くらいにはなりたかった」
東優という男のコンプレックスに、いま、彼女は触れている。
数多くの選択肢の中から、彼は選び取ることは出来なかった。
限定された道の中から、東先輩はいまの自分を作り上げたのだ。
菜々の胸が、ぶわっと膨張したのが分かった。
物理的にではなく、心理的に。
その膨らんだ内側が、東優という男がいっぱいに埋め尽くされる。
それでも入りきれず、はみ出してしまそうなかけらを、ぎゅうぎゅうに抑え込まなければならないほど。
不安なのは、彼も一緒なのだ。
自分の欠点を口惜しく思うのは、菜々だけではないのだ。
それが垣間見えて、彼女は前よりももっと、東優を愛しく思った。
「あ、東先輩……私……」
その感情に突き動かされ、菜々はただただ彼を見上げる。
「私……私……」
頭に血が昇りすぎて、ぶつけた後頭部がズキズキと酷く痛む気がした。
しかし、その痛みこそが、全て現実なのだと菜々に教えてくれる。
「私……東先輩のこと……好き、になっても、いいですか?」
なのに。
菜々の言葉は──往生際が悪かった。


