「伊藤さん!」
昼休みも終わる間際──その人は、保健室に飛び込んで来た。
東先輩だ。
菜々は、ちょうど校医と話をしていたところで、その剣幕に驚いて固まってしまった。
「え? あれ? 東先輩?」
少し前に、努は保健室を出て行った。
校医も帰ってきたので、菜々が、もういいと帰したのだ。
このタイミングで東先輩が来るということは、世界でただ一人、菜々と許し合わない仲になったはずの努が、兄である彼に話したということなのだろうか。
東先輩は、ぽかんとしてる彼女の顔を見るや、ほぉーっと安堵のため息を落とした。彼の両肩の力が、傍目でも分かるほど一気に抜けていく。
しかし、次の瞬間、再びその肩は上向いた。
「先生、伊藤さんは頭を打っているということなので、念のためCT検査を受けさせた方がいいと思います」
その肩の勢いは、菜々には向かなかった。
校医の方を向くや、いつもより速い口調で、言葉を並べ立てる。
「え、ええ、その話を、いま伊藤さんとしていたのよ。今日はこのまま早退して、病院に行ったらどう、と」
気迫に押されるように、女性校医は、ついいましがた菜々と交わしていた会話を繰り返す。
「分かりました。病院に行くまで、もしものことがあるといけませんから、僕が付き添います。伊藤さん、伊藤さんのカバンを預かってくるから、少しここで待っていて」
昼休みの終わるチャイムが鳴り始めた音を、東先輩は視線で追いかける。
え、あ、ちょっ。
菜々に戸惑う隙も与えないまま、彼は保健室を出て行ってしまった。
普段、穏やかでゆるやかな姿しか見たことがなかったため、ほんの少しの早回しの動きにさえ、彼女はうまくついていけない。
「びょ……病院くらい一人で行けま……」
もはや閉ざされてしばらくたった扉に向かって、菜々は呆然と、遅れてきた言葉をぼとぼとと落とす。
「空いてる先生に、病院まで車で送ってもらおうと思ったのに……ふふふ、青春ねー」
懐かしいものを見る目で、楽しげに校医は微笑んでいる。
菜々は、耳まで赤くして小さくなるしか出来なかった。
どうしよう、と。
努相手になら、簡単に『東先輩が好き』と言えたというのに、当の本人がちらりと目の前を横切っただけで、こんな有様なのだ。
そんな人と一緒に病院まで行くなんて、考えるだに恐ろしい事態だった。
もし、その途中で菜々が死ぬようなことがあれば、死因は頭を打ったことではなく、『羞恥死』に違いない。
そして、彼は菜々の教室に行き、荷物を受け取ってくるのである。おそらく間違いなく雅が、その対応をしてくれるだろう。
昼休みが終わっているのだから、ほとんど全員が戻っている教室で、だ。
どんな推測が、クラスメートの中で飛び交うのか──恐ろしくて考えたくなかった。
そんな様々な想像が、菜々を長い時間混乱させてしまったために、東先輩が保健室に戻ってくるまでの時間は、とても短いものに感じた。
「行こう、伊藤さん」
二人分のカバンと、菜々のスポーツバッグを提げた彼の姿を前にして。
菜々は、もはや自分が『羞恥死』から逃れられないことを知るのだった。
※
「本当に……努が、迷惑をかけて……」
いつもよりも、もっと遅い歩調で校門を出た二人は、坂道を下る。
こんなに太陽が高い時間に、一緒にここを歩くのは、これが初めてだった。
予想通り、東先輩は弟の不始末を語り始める。
「東くん、先輩のところに行ったんですね……意外でした」
彼に謝ってもらうつもりは、菜々にはない。
弟の不始末に対する義務感で、一緒にいて欲しくなかったからだ。
だから、話を努という人間そのものの方へとシフトしようとした。
「え?」
菜々の切り返しは、予想外だったのだろう。東先輩は虚を突かれたように、横を歩く彼女を見下ろす。
「私、東くんと『許し合わない仲』になったんです。だから、東くんが先輩のところに、このことを報告するとは思ってませんでした」
彼を見上げることが出来ないのは、菜々の中の羞恥のせい。
その羞恥とは、関係ないところにある努のことならば、唇は予想以上にすらりと音にしてくれた。
「許し……合わない仲?」
その不思議な関係を表す言葉は、東先輩にも理解しがたいものだったようで、多くの戸惑いと怪訝がうねっている。
「はい。私は、東くんが私にしたことを許さない。東くんも、私が先輩の……隣にいることは許さない……そういう関係です」
先輩の、の後、何と言おうか迷って、菜々は結局そういう表現を使った。
まだ、二人の間を表す関係に、名前はないのだ。
「ええと……」
やはり、理解しがたいのだろう。
東先輩が、考え込む音がする。
それがおかしくて、菜々は小さく笑ってしまった。
いまの菜々は、ほんの少しではあるけれども、彼を困らせている気がした。
それが気恥ずかしくて、でも嬉しくて、その照れくささが彼女に笑みを浮かべさせてしまったのだ。
「えと、あんまり心配しないで下さい。雅ちゃんが、前に言ってました。『理解しあえる人より、理解しあえない人の方が遥かに多い』って。東くんとは、その理解しあえないということを、お互いに理解したというか……あれ? 合ってるかな?」
言葉にしていると、だんだん混乱してきた。『理解』という言葉を数多く使い過ぎて、よく分からなくなったせいである。
「ともかく……許し合わないって、お互いに顔を突き合わせて決められたって、何か物凄いことだと思いません?」
東先輩は、複雑な心境だろう。
弟と、好きだと言った女が、こんな複雑な関係を構築してしまったのだから。
けれど、それを心の負担だと思って欲しくなくて、菜々は極めて明るい声でそう言ったのだ。
「……」
彼女の言葉に、東先輩は答えない。
まだ、彼は考え込んでいるのだろうかと、菜々は覚悟を決めて、彼を見上げようとした。
「伊藤さん……いま、こっち見ないで」
しかし、そんな菜々の顎の動きは、彼女から顔をそらすように先輩が向こうの方を向いてしまったことで成就することはなかった。
やはり、気分を害してしまったのだろうか。
菜々の心に、不安の風が吹きぬけようとした時。
東先輩は、ひとつ小さなため息をついてこう言った。
「いま……僕は、努に嫉妬してるから……こんな無様な顔は、伊藤さんに見せたくない」
えええええ!?
想像の成層圏を突き抜ける言葉に、彼女はあんぐりと大口を開けてしまう。
さっきの話のどこに、嫉妬する要素があったというのか。
東優という男の心は──菜々には複雑過ぎるようだった。
昼休みも終わる間際──その人は、保健室に飛び込んで来た。
東先輩だ。
菜々は、ちょうど校医と話をしていたところで、その剣幕に驚いて固まってしまった。
「え? あれ? 東先輩?」
少し前に、努は保健室を出て行った。
校医も帰ってきたので、菜々が、もういいと帰したのだ。
このタイミングで東先輩が来るということは、世界でただ一人、菜々と許し合わない仲になったはずの努が、兄である彼に話したということなのだろうか。
東先輩は、ぽかんとしてる彼女の顔を見るや、ほぉーっと安堵のため息を落とした。彼の両肩の力が、傍目でも分かるほど一気に抜けていく。
しかし、次の瞬間、再びその肩は上向いた。
「先生、伊藤さんは頭を打っているということなので、念のためCT検査を受けさせた方がいいと思います」
その肩の勢いは、菜々には向かなかった。
校医の方を向くや、いつもより速い口調で、言葉を並べ立てる。
「え、ええ、その話を、いま伊藤さんとしていたのよ。今日はこのまま早退して、病院に行ったらどう、と」
気迫に押されるように、女性校医は、ついいましがた菜々と交わしていた会話を繰り返す。
「分かりました。病院に行くまで、もしものことがあるといけませんから、僕が付き添います。伊藤さん、伊藤さんのカバンを預かってくるから、少しここで待っていて」
昼休みの終わるチャイムが鳴り始めた音を、東先輩は視線で追いかける。
え、あ、ちょっ。
菜々に戸惑う隙も与えないまま、彼は保健室を出て行ってしまった。
普段、穏やかでゆるやかな姿しか見たことがなかったため、ほんの少しの早回しの動きにさえ、彼女はうまくついていけない。
「びょ……病院くらい一人で行けま……」
もはや閉ざされてしばらくたった扉に向かって、菜々は呆然と、遅れてきた言葉をぼとぼとと落とす。
「空いてる先生に、病院まで車で送ってもらおうと思ったのに……ふふふ、青春ねー」
懐かしいものを見る目で、楽しげに校医は微笑んでいる。
菜々は、耳まで赤くして小さくなるしか出来なかった。
どうしよう、と。
努相手になら、簡単に『東先輩が好き』と言えたというのに、当の本人がちらりと目の前を横切っただけで、こんな有様なのだ。
そんな人と一緒に病院まで行くなんて、考えるだに恐ろしい事態だった。
もし、その途中で菜々が死ぬようなことがあれば、死因は頭を打ったことではなく、『羞恥死』に違いない。
そして、彼は菜々の教室に行き、荷物を受け取ってくるのである。おそらく間違いなく雅が、その対応をしてくれるだろう。
昼休みが終わっているのだから、ほとんど全員が戻っている教室で、だ。
どんな推測が、クラスメートの中で飛び交うのか──恐ろしくて考えたくなかった。
そんな様々な想像が、菜々を長い時間混乱させてしまったために、東先輩が保健室に戻ってくるまでの時間は、とても短いものに感じた。
「行こう、伊藤さん」
二人分のカバンと、菜々のスポーツバッグを提げた彼の姿を前にして。
菜々は、もはや自分が『羞恥死』から逃れられないことを知るのだった。
※
「本当に……努が、迷惑をかけて……」
いつもよりも、もっと遅い歩調で校門を出た二人は、坂道を下る。
こんなに太陽が高い時間に、一緒にここを歩くのは、これが初めてだった。
予想通り、東先輩は弟の不始末を語り始める。
「東くん、先輩のところに行ったんですね……意外でした」
彼に謝ってもらうつもりは、菜々にはない。
弟の不始末に対する義務感で、一緒にいて欲しくなかったからだ。
だから、話を努という人間そのものの方へとシフトしようとした。
「え?」
菜々の切り返しは、予想外だったのだろう。東先輩は虚を突かれたように、横を歩く彼女を見下ろす。
「私、東くんと『許し合わない仲』になったんです。だから、東くんが先輩のところに、このことを報告するとは思ってませんでした」
彼を見上げることが出来ないのは、菜々の中の羞恥のせい。
その羞恥とは、関係ないところにある努のことならば、唇は予想以上にすらりと音にしてくれた。
「許し……合わない仲?」
その不思議な関係を表す言葉は、東先輩にも理解しがたいものだったようで、多くの戸惑いと怪訝がうねっている。
「はい。私は、東くんが私にしたことを許さない。東くんも、私が先輩の……隣にいることは許さない……そういう関係です」
先輩の、の後、何と言おうか迷って、菜々は結局そういう表現を使った。
まだ、二人の間を表す関係に、名前はないのだ。
「ええと……」
やはり、理解しがたいのだろう。
東先輩が、考え込む音がする。
それがおかしくて、菜々は小さく笑ってしまった。
いまの菜々は、ほんの少しではあるけれども、彼を困らせている気がした。
それが気恥ずかしくて、でも嬉しくて、その照れくささが彼女に笑みを浮かべさせてしまったのだ。
「えと、あんまり心配しないで下さい。雅ちゃんが、前に言ってました。『理解しあえる人より、理解しあえない人の方が遥かに多い』って。東くんとは、その理解しあえないということを、お互いに理解したというか……あれ? 合ってるかな?」
言葉にしていると、だんだん混乱してきた。『理解』という言葉を数多く使い過ぎて、よく分からなくなったせいである。
「ともかく……許し合わないって、お互いに顔を突き合わせて決められたって、何か物凄いことだと思いません?」
東先輩は、複雑な心境だろう。
弟と、好きだと言った女が、こんな複雑な関係を構築してしまったのだから。
けれど、それを心の負担だと思って欲しくなくて、菜々は極めて明るい声でそう言ったのだ。
「……」
彼女の言葉に、東先輩は答えない。
まだ、彼は考え込んでいるのだろうかと、菜々は覚悟を決めて、彼を見上げようとした。
「伊藤さん……いま、こっち見ないで」
しかし、そんな菜々の顎の動きは、彼女から顔をそらすように先輩が向こうの方を向いてしまったことで成就することはなかった。
やはり、気分を害してしまったのだろうか。
菜々の心に、不安の風が吹きぬけようとした時。
東先輩は、ひとつ小さなため息をついてこう言った。
「いま……僕は、努に嫉妬してるから……こんな無様な顔は、伊藤さんに見せたくない」
えええええ!?
想像の成層圏を突き抜ける言葉に、彼女はあんぐりと大口を開けてしまう。
さっきの話のどこに、嫉妬する要素があったというのか。
東優という男の心は──菜々には複雑過ぎるようだった。


