「兄貴には、ちゃんと『彼女』がいるんだからな!」
そう努に突きつけられた言葉に、菜々は首を傾げたまま彼を見上げていた。
東先輩に、彼女がいるというのだ。
もしも、彼が言うことが本当であるならば、昨日の先輩の告白は、一体何だったのか。
「……」
菜々は、黙って考え込んだ。
彼女にとって東優という男は、尊敬している人なのだから、そんな不誠実なことはしないはず。
それを信じたい気持ちと、目の前の努の言葉を、天秤の両側に載せてみたのだ。
ガチャン!
比べるまでもなく、東先輩の言葉の方が重く、そのあまりの差に、努の言葉は天秤の皿の上からロケットよろしくすっ飛んでいった。
「ごめん……東くんの言葉、信じられない」
彼には、嘘をつく理由はある。
努の目には、菜々は兄にふさわしい女に映っていない、というのが最大の理由だ。
鈍い菜々だって、もはやそれくらいは分かっているのである。
「嘘なんかつくかよ。相手は、二年の木下沙織先輩だ。美術部だから、あの『クソ女』がよーく知ってる相手だ」
刹那。
バチン。
菜々は、兄とは全然似ていない、よく日に焼けた男のほっぺたを、平手で叩いていた。
張り倒すほどの力は入れていないが、いい音が鳴った。
「雅ちゃんは、クソ女なんかじゃない! 雅ちゃんのことを悪く言う人の言葉なんか、何一つ信用しない」
菜々が罵倒された時、雅は一瞬も臆することはなかった。
そのおかげで、彼女は努に罵倒されたことなど、痛くもかゆくもなかったのである。
思い出そうとすると、必ずセットで雅の姿が思い浮かんで、逆に笑ってしまいそうなほどだ。
痛い過去を、時間もかけずに笑い話にしてくれた友人を侮辱されて、菜々がヘラヘラしていられるわけがなかった。
東先輩の弟ではあるが、これ以上彼の話を聞いたところで、何の意味もない。
彼女は、教室に戻るべきだと思い、階段に足をかけ、すばやく踏み出そうとした。
「ま、待てよ!」
だが、相手もまた運動部員。
菜々の運動神経にさえ、ついてこられる身体能力を持っていた。
え?
階段の、もう一段上にかけようとした足が、空を舞う。
腕を掴まれて、後方に引っ張られたからだ。
菜々のウェイトの軽さと、引かれる力のバランスが、とにかく悪かったのだけは分かった。
グラッ、ドンッ、ガツッ!
音が三つ流れたかと思ったら──菜々の目の前に星が飛んだ。
※
「いたた……」
菜々が、くらっとする頭を軽く動かして、意識を覚醒させた時。
彼女の目の前には、白いシャツがあった。
そこから伸びる日に焼けた肌があり、しっかりした顎も見えた。
「伊藤、大丈夫か?」
声は努のもの。
そこまで理解した後、菜々はいまの自分の状態を、ようやく把握した。
彼女は、努にお姫様だっこの形で、運ばれていたのだ。
「え、ちょっ!」
「後でいくらでも謝るから、いまは大人しくしてくれ」
信じられない状態に、彼女が暴れようとすると、より強く抱えなおされてしまった。
切羽詰った声は、こうなった原因が努にあるからだろう。
彼が強く引っ張りすぎたため、菜々は勢い余って壁に頭をぶつけてしまったのである。
それで、情けなくも脳震盪を起こした、というわけだ。
謝ってもらわなくてもいいので、大人しくさせないで欲しかった。
ここは、学校なのである。
昼休み、非常階段にこそ人はほとんどいないものの、廊下に出てしまえば、その目から逃れることは出来ない。
そして、学校ではお姫様だっこなんて、滅多に起きる事態ではないのだ。
ひいっと身を小さくして、菜々は周囲の視線から逃れるのが精一杯だった。
そんな彼女の心など、何ひとつ知らないこの色黒男は、迷いない足取りで教務棟にある保健室へと向かうのである。
渡り廊下を通った方が近いのはよく分かるが、昼休みという時間帯を考えると、本当にもう勘弁して欲しかった。
「先生! 脳震盪です、お願いします!」
運動部と保健室は、仲がいい。
ちょっと無理なことをすれば、必ずといっていいほどお世話になる場所だからだ。
ようやくお姫様だっこという苦行から逃れた菜々は、自分で立とうとして視界がぐらんぐらんに揺れたのを知る。
「うあっ」
よろける彼女を、努はがっちりと小脇に抱えながら、保健室の中へと彼女を引っ張り込む。
「って、いねぇし」
昼休みは、校医にとっても昼休みなのだ。
職員室で昼食でも取っているのか、姿が見えない。
「しょうがねぇ」
努は小脇に抱えた菜々を、そのまま空いたベッドに座らせる。
座っているのに、視界が揺れる。
「悪いな、結構揺れただろ。今更かもしんねぇけど、頭動かさないようにすっから横になれ」
大きな手が、菜々の頭を支える。
もはや、抵抗できる状態ではなく、菜々は素直にベッドに横になった。
頭の位置が安定すると、ほんの少しではあるが、視界が楽になった気がする。
「吐き気はねぇか? コブになってねぇか?」
自分が怪我をさせた罪悪感はあるのだろうが、努のテキパキとした看護を前に、菜々は戸惑っていた。
勝手に冷凍室を開けてアイスノンを取り出し、ぶつけた後頭部にタオルで温度調節をして敷いてくれる。
何というか。
看病慣れしているのだ。
そして、ああと思った。
彼は、東優の弟なのだ、と。
東先輩は、子供の頃から身体が弱かったと言っていた。
そんな兄を、努は甲斐甲斐しく面倒をみてきたのだろう。
そう思うと、おかしくなってちょっと笑ってしまった。
「頭……ほんとに大丈夫か? 悪かったな、あんなに軽いなんて、思ってもみなかった」
菜々の笑った顔は、努に違う心配をさせたようだ。
罪悪感いっぱいの目で、彼女を見下ろしている。
「少しこうしていれば大丈夫だと思う。足もくじいてないし」
菜々にとっては、頭よりも大事なものがあって、そっちが無事だと、心も軽いものだ。
「けど……俺を許さなくていいから。許して欲しいと思ってもいないし」
しかし、努の心は頑なだった。
いっそ今回の件込みで、菜々には憎まれてもいいと思っているのだろう。
参ったなあ。
努にとって、自分は本当に及第点以下なのだと思い知る。
「兄貴には彼女がいるって言っただろ? 美術部の木下先輩。綺麗で頭もよくて、彼女と兄貴と並んで歩いている姿は、俺の憧れだったし、誇りだった」
この状況で、菜々は逃げ散らかすことも出来ず、ただ努の吐き出す言葉を聞かされる。
しかし、違和感がないわけではなかった。
『彼女がいる』としながらも、彼の言葉は、『憧れだった』『誇りだった』という過去形で語られているのだ。
これほど執拗に木下先輩とやらの話をするのだから、彼女は本当に『いた』のだろう。
今現在は、どうかよく分からないが。
努の心には、兄と彼女の光景が美しいものとして焼きついているのだ。
その一枚の絵のような完成品から、離れられないでいるのか。
確かに菜々は、綺麗でもなければ、頭もよくない。
努に言わせれば、スカートをはかなければ、男か女かも分からなような女子高生だ。
自分でも、薄々感じてはいたが、やはり東先輩の彼女になるには、菜々では余りに似合わないのだろう。
沈みかけた心は、しかし、記憶の中の人間に踏みつけられた。
『ああ、気持ち悪いわね』
人の目を気にしている菜々など、彼女──雅にかかれば、ただの気持ち悪いものにしか見えないだろう。
まさに、雅の声音で聞こえるものだから、菜々はやっぱり笑ってしまった。
「ごめん、東くん」
悲痛な顔の努を前に、菜々は晴れやかだった。
「やっぱり私、東先輩が好きみたい……だから」
反対されるのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳でもない。
大好きなマラソンと同じだった。
勝てないのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳ではないのだ。
「だから、東くん。私のこと、許さなくていいよ」
そして菜々は、東努と──許し合わない仲になったのだ。
そう努に突きつけられた言葉に、菜々は首を傾げたまま彼を見上げていた。
東先輩に、彼女がいるというのだ。
もしも、彼が言うことが本当であるならば、昨日の先輩の告白は、一体何だったのか。
「……」
菜々は、黙って考え込んだ。
彼女にとって東優という男は、尊敬している人なのだから、そんな不誠実なことはしないはず。
それを信じたい気持ちと、目の前の努の言葉を、天秤の両側に載せてみたのだ。
ガチャン!
比べるまでもなく、東先輩の言葉の方が重く、そのあまりの差に、努の言葉は天秤の皿の上からロケットよろしくすっ飛んでいった。
「ごめん……東くんの言葉、信じられない」
彼には、嘘をつく理由はある。
努の目には、菜々は兄にふさわしい女に映っていない、というのが最大の理由だ。
鈍い菜々だって、もはやそれくらいは分かっているのである。
「嘘なんかつくかよ。相手は、二年の木下沙織先輩だ。美術部だから、あの『クソ女』がよーく知ってる相手だ」
刹那。
バチン。
菜々は、兄とは全然似ていない、よく日に焼けた男のほっぺたを、平手で叩いていた。
張り倒すほどの力は入れていないが、いい音が鳴った。
「雅ちゃんは、クソ女なんかじゃない! 雅ちゃんのことを悪く言う人の言葉なんか、何一つ信用しない」
菜々が罵倒された時、雅は一瞬も臆することはなかった。
そのおかげで、彼女は努に罵倒されたことなど、痛くもかゆくもなかったのである。
思い出そうとすると、必ずセットで雅の姿が思い浮かんで、逆に笑ってしまいそうなほどだ。
痛い過去を、時間もかけずに笑い話にしてくれた友人を侮辱されて、菜々がヘラヘラしていられるわけがなかった。
東先輩の弟ではあるが、これ以上彼の話を聞いたところで、何の意味もない。
彼女は、教室に戻るべきだと思い、階段に足をかけ、すばやく踏み出そうとした。
「ま、待てよ!」
だが、相手もまた運動部員。
菜々の運動神経にさえ、ついてこられる身体能力を持っていた。
え?
階段の、もう一段上にかけようとした足が、空を舞う。
腕を掴まれて、後方に引っ張られたからだ。
菜々のウェイトの軽さと、引かれる力のバランスが、とにかく悪かったのだけは分かった。
グラッ、ドンッ、ガツッ!
音が三つ流れたかと思ったら──菜々の目の前に星が飛んだ。
※
「いたた……」
菜々が、くらっとする頭を軽く動かして、意識を覚醒させた時。
彼女の目の前には、白いシャツがあった。
そこから伸びる日に焼けた肌があり、しっかりした顎も見えた。
「伊藤、大丈夫か?」
声は努のもの。
そこまで理解した後、菜々はいまの自分の状態を、ようやく把握した。
彼女は、努にお姫様だっこの形で、運ばれていたのだ。
「え、ちょっ!」
「後でいくらでも謝るから、いまは大人しくしてくれ」
信じられない状態に、彼女が暴れようとすると、より強く抱えなおされてしまった。
切羽詰った声は、こうなった原因が努にあるからだろう。
彼が強く引っ張りすぎたため、菜々は勢い余って壁に頭をぶつけてしまったのである。
それで、情けなくも脳震盪を起こした、というわけだ。
謝ってもらわなくてもいいので、大人しくさせないで欲しかった。
ここは、学校なのである。
昼休み、非常階段にこそ人はほとんどいないものの、廊下に出てしまえば、その目から逃れることは出来ない。
そして、学校ではお姫様だっこなんて、滅多に起きる事態ではないのだ。
ひいっと身を小さくして、菜々は周囲の視線から逃れるのが精一杯だった。
そんな彼女の心など、何ひとつ知らないこの色黒男は、迷いない足取りで教務棟にある保健室へと向かうのである。
渡り廊下を通った方が近いのはよく分かるが、昼休みという時間帯を考えると、本当にもう勘弁して欲しかった。
「先生! 脳震盪です、お願いします!」
運動部と保健室は、仲がいい。
ちょっと無理なことをすれば、必ずといっていいほどお世話になる場所だからだ。
ようやくお姫様だっこという苦行から逃れた菜々は、自分で立とうとして視界がぐらんぐらんに揺れたのを知る。
「うあっ」
よろける彼女を、努はがっちりと小脇に抱えながら、保健室の中へと彼女を引っ張り込む。
「って、いねぇし」
昼休みは、校医にとっても昼休みなのだ。
職員室で昼食でも取っているのか、姿が見えない。
「しょうがねぇ」
努は小脇に抱えた菜々を、そのまま空いたベッドに座らせる。
座っているのに、視界が揺れる。
「悪いな、結構揺れただろ。今更かもしんねぇけど、頭動かさないようにすっから横になれ」
大きな手が、菜々の頭を支える。
もはや、抵抗できる状態ではなく、菜々は素直にベッドに横になった。
頭の位置が安定すると、ほんの少しではあるが、視界が楽になった気がする。
「吐き気はねぇか? コブになってねぇか?」
自分が怪我をさせた罪悪感はあるのだろうが、努のテキパキとした看護を前に、菜々は戸惑っていた。
勝手に冷凍室を開けてアイスノンを取り出し、ぶつけた後頭部にタオルで温度調節をして敷いてくれる。
何というか。
看病慣れしているのだ。
そして、ああと思った。
彼は、東優の弟なのだ、と。
東先輩は、子供の頃から身体が弱かったと言っていた。
そんな兄を、努は甲斐甲斐しく面倒をみてきたのだろう。
そう思うと、おかしくなってちょっと笑ってしまった。
「頭……ほんとに大丈夫か? 悪かったな、あんなに軽いなんて、思ってもみなかった」
菜々の笑った顔は、努に違う心配をさせたようだ。
罪悪感いっぱいの目で、彼女を見下ろしている。
「少しこうしていれば大丈夫だと思う。足もくじいてないし」
菜々にとっては、頭よりも大事なものがあって、そっちが無事だと、心も軽いものだ。
「けど……俺を許さなくていいから。許して欲しいと思ってもいないし」
しかし、努の心は頑なだった。
いっそ今回の件込みで、菜々には憎まれてもいいと思っているのだろう。
参ったなあ。
努にとって、自分は本当に及第点以下なのだと思い知る。
「兄貴には彼女がいるって言っただろ? 美術部の木下先輩。綺麗で頭もよくて、彼女と兄貴と並んで歩いている姿は、俺の憧れだったし、誇りだった」
この状況で、菜々は逃げ散らかすことも出来ず、ただ努の吐き出す言葉を聞かされる。
しかし、違和感がないわけではなかった。
『彼女がいる』としながらも、彼の言葉は、『憧れだった』『誇りだった』という過去形で語られているのだ。
これほど執拗に木下先輩とやらの話をするのだから、彼女は本当に『いた』のだろう。
今現在は、どうかよく分からないが。
努の心には、兄と彼女の光景が美しいものとして焼きついているのだ。
その一枚の絵のような完成品から、離れられないでいるのか。
確かに菜々は、綺麗でもなければ、頭もよくない。
努に言わせれば、スカートをはかなければ、男か女かも分からなような女子高生だ。
自分でも、薄々感じてはいたが、やはり東先輩の彼女になるには、菜々では余りに似合わないのだろう。
沈みかけた心は、しかし、記憶の中の人間に踏みつけられた。
『ああ、気持ち悪いわね』
人の目を気にしている菜々など、彼女──雅にかかれば、ただの気持ち悪いものにしか見えないだろう。
まさに、雅の声音で聞こえるものだから、菜々はやっぱり笑ってしまった。
「ごめん、東くん」
悲痛な顔の努を前に、菜々は晴れやかだった。
「やっぱり私、東先輩が好きみたい……だから」
反対されるのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳でもない。
大好きなマラソンと同じだった。
勝てないのはつらいけれど、だからといってあきらめられる訳ではないのだ。
「だから、東くん。私のこと、許さなくていいよ」
そして菜々は、東努と──許し合わない仲になったのだ。


