「『まあ、綺麗(きれい)。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ』」
火曜日──中秋の名月の日の朝っぱらから、菜々は雅にそう冷やかされた。
既に、廊下側の一番後ろの席についていた彼女は、入ってきた菜々を見るや、わざと老いた女の声を出したのだ。
『あら、お母さん、それは夢よ』
彼女の引用をそのまま続けるならば、菜々はそう答えるべきだった。
太宰治の、『フォスフォレッスセンス』の冒頭の会話だ。
しかし、菜々はそんな芝居がかったことの出来る性格ではないし、たった今、雅に心の中を透かして見られた気がして、頭にカーッと血が集まっていくのが分かった。
昨日の帰り道の出来事を、一気に思い出してしまったのである。
「な、な、何を言ってるの、雅ちゃん」
照れでぼうっとなりながら、菜々は腕をぶんぶん振り回して、雅の視線から逃れようとした。
しかし、雅の涼やかで長いまつげの内側の瞳には、彼女がしっかりと映り続けている。
昨夜。
菜々は、自分の部屋に飛び込むなり、へたりこんで、羞恥と共に床を転がった。
母が階下から、夕食に呼ぶ声にもうまく対応出来ず、混乱と興奮の限りを尽くした。
ご飯を口の中にねじこみ、シャワーを頭から修行僧のように浴びても、それは落ち着くことはなく、ついに菜々は耐え切れずに、雅に電話してしまったのだ。
「ど、ど、ど、どうしよう、雅ちゃん! 東先輩に告白されちゃった!」
『菜々、あんたバカ?』
この温度差、である。
方や熱帯雨林、方やツンドラという二人の会話が、かみ合うはずもない。
『それで、ちゃんと捕獲したんでしょうね』
「捕獲?」
東先輩の話をしているのであって、野性動物の話はしていなかったのに、雅は奇妙な表現を使った。
『だーかーらー、菜々、あんたもちゃんと返事したんでしょうね、ってこと』
半分棒読みになりかけているのは、相手をするのが面倒くさくなってきたせいか。
だが、彼女の言葉は、菜々の思考を停止させた。
返事?
東『僕は……伊藤さんが好きだよ』
菜『う、うえぇぇあええええっ!?』
東『そんなに、驚くことかな……気づかれてると思ったんだけど』
菜『き、気づくなんて、む、無理無理無理です!』
東『そう、かな? 努には、結構早くバレてたみたいだけど……』
菜『お、男の子にそんなこと、言われたことないので……ぜ、全然分かりませんでした』
東『そう、それは良かった』
菜『……良かった?』
東『あ、ごめん、こっちの話。でも、からかってるとか、そういうんじゃないよ。これが、僕の本当の気持ち』
菜『あわわ……あ、ありがとうございます』
こんな会話の流れの後、菜々は恥ずかしさがテッペンまで来てしまい、もはや何が何だか分からなくなってしまったのだ。
そうしているうちに、二つ目のバス停が来てしまう。
『じゃあ、伊藤さん……また明日ね』
月明かりの下の東先輩は、色が白いせいか、うっすらと頬に赤みが入っているのがよく分かった。
そこまで回想した菜々は、その時初めて気づいたのだ。
「どうしよう……返事するの……忘れてた」
携帯電話を握り締め、菜々は青ざめる。
『はいはい、オチをありがとう。明日、どう返事をするか、一晩ゆっくり悶々としてるといいわ』
ブチッ。
捨てゼリフと共に、雅は菜々を電話のこちら側へと置き去りにしたのだった。
そして、彼女の予言どおり、菜々は悶々とした夜を過ごすこととなる──はずだったのに、陸上で酷使した身体は、余りに正直に彼女を眠りのどん底へとたたき落としたのだった。
何の考えもまとまらないまま、菜々は次の日の太陽を拝んだのだ。
朝のランニングをしている間も、シャワーを浴びて着替えて登校を始めても、菜々の頭の中には昨夜の宿題が、終えられないままぎゅっと詰まっている。
「『まあ、綺麗(きれい)。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ』」
そんな彼女の脳を教室に入るなり、皮肉な言葉と共に雅が破裂させてしまったのだ。
※
長い長い午前中を経て、菜々はついに昼休みに突入した。
雅と一緒に取るお弁当タイムが終わっても、まだ図書室に行く勇気は出ない。
宿題が終わってないのだ。
雅は、人の宿題を目の前に出すことはしても、手伝うタイプではない。
だから菜々は、一人でにらめっこを続けるつもりだった。
なのに。
「伊藤、ちょっと顔貸せ」
前回、あれほど雅にひどい目に遭わされたというのに、またも東努がやって来てしまったのである。
いや、ひどい目に遭わされた事に懲りているからこそ、菜々一人を教室から引っ張り出そうとしたのだ。
「『伊藤さん、お手間を取らせて申し訳ありませんが、ちょっとお付き合いいただけませんでしょうか?』でしょ?」
椅子の背もたれ越しに、雅が美しくも鋭い訂正を入れる。
うぐっと、努は唇を閉じる。
「ここで菜々が、『いやです』って答えたらどうするつもりなの、あんた? それでもいいなら、答えは分かってるんだから、さっさと帰ることね」
その閉じた唇めがけて、雅は更に言葉のミサイルをねじ込む。口の中では、さぞや爆発が連続して起きていることだろう。
「……い、伊藤さん、お手間を取らせて申し訳ありませんが、ちょっとお付き合いいただけませんでしょうか!」
これでいいんだろうと言わんばかりに、あの東努が、半ばヤケクソのようではあったが、ついに折れたのだ。
菜々は、感動の光景を見ている気分だった。
雅ちゃん、スゲェと。
すっかり、他人事だったのである。
しかし、努と雅の視線が両方一度に菜々に向いたため、はっと彼女は我に返る。
ここまで折れられて『いやです』と言おうものなら、菜々は悪者ではないか。
「え、あ、はい」
カタンと席から立ち上がって、菜々は彼の方へと向かった。
話は分かっている。東先輩のことだ。
彼は菜々のことを好きだと言ってくれて、菜々も勿論彼のことが好きなのだ。
ということは、いつかは必ずこの努と、わだかまりを解消しなければならない時が来るということ。
いまの菜々にとっては、東先輩と顔を合わせるよりも、彼と顔を合わせる方が、よほど気楽だというから、おかしな話である。
フンと、鼻息も荒く先を歩く努は、廊下の突き当たりの非常階段に向かう扉を開ける。
秋晴れの空が、抜けるほど青い。
今夜は、素晴らしい名月が見られることだろう。
菜々が釣られて非常階段に出ると、逆に彼は一度戻り、廊下に続く扉をバタンと閉めてしまった。
しかし、ガラス窓のついている扉のため、隠れることは出来ないだろう。
それに気づいたのか、努は一度宙を見上げた後、階段を降りてゆき、踊り場のスペースで足を止めた。
確かにそこならば、多少の人目はごまかせるだろう。
おそるおそる、菜々もそこへと降り立った。
「あー……伊藤、兄貴に何を言われたかは知らないが……本気に取らない方がいいぜ」
頭を、ガッシガッシとかきまわしながら、努は彼女に視線を向けずに、やや乱暴な口調でいきなり言い放った。
「兄貴には、ちゃんと『彼女』がいるんだからな!」
体育会系の強いまなざしを持っているはずの男の目は、大きく揺れながら、菜々にそう鋭い言葉を突きつける。
そのギャップを理解できるほど、いまの菜々には心の余裕はない。
突然の展開に、頭の上に「?」を浮かべたまま、ほけーっと努を見上げるしか出来なかった。
火曜日──中秋の名月の日の朝っぱらから、菜々は雅にそう冷やかされた。
既に、廊下側の一番後ろの席についていた彼女は、入ってきた菜々を見るや、わざと老いた女の声を出したのだ。
『あら、お母さん、それは夢よ』
彼女の引用をそのまま続けるならば、菜々はそう答えるべきだった。
太宰治の、『フォスフォレッスセンス』の冒頭の会話だ。
しかし、菜々はそんな芝居がかったことの出来る性格ではないし、たった今、雅に心の中を透かして見られた気がして、頭にカーッと血が集まっていくのが分かった。
昨日の帰り道の出来事を、一気に思い出してしまったのである。
「な、な、何を言ってるの、雅ちゃん」
照れでぼうっとなりながら、菜々は腕をぶんぶん振り回して、雅の視線から逃れようとした。
しかし、雅の涼やかで長いまつげの内側の瞳には、彼女がしっかりと映り続けている。
昨夜。
菜々は、自分の部屋に飛び込むなり、へたりこんで、羞恥と共に床を転がった。
母が階下から、夕食に呼ぶ声にもうまく対応出来ず、混乱と興奮の限りを尽くした。
ご飯を口の中にねじこみ、シャワーを頭から修行僧のように浴びても、それは落ち着くことはなく、ついに菜々は耐え切れずに、雅に電話してしまったのだ。
「ど、ど、ど、どうしよう、雅ちゃん! 東先輩に告白されちゃった!」
『菜々、あんたバカ?』
この温度差、である。
方や熱帯雨林、方やツンドラという二人の会話が、かみ合うはずもない。
『それで、ちゃんと捕獲したんでしょうね』
「捕獲?」
東先輩の話をしているのであって、野性動物の話はしていなかったのに、雅は奇妙な表現を使った。
『だーかーらー、菜々、あんたもちゃんと返事したんでしょうね、ってこと』
半分棒読みになりかけているのは、相手をするのが面倒くさくなってきたせいか。
だが、彼女の言葉は、菜々の思考を停止させた。
返事?
東『僕は……伊藤さんが好きだよ』
菜『う、うえぇぇあええええっ!?』
東『そんなに、驚くことかな……気づかれてると思ったんだけど』
菜『き、気づくなんて、む、無理無理無理です!』
東『そう、かな? 努には、結構早くバレてたみたいだけど……』
菜『お、男の子にそんなこと、言われたことないので……ぜ、全然分かりませんでした』
東『そう、それは良かった』
菜『……良かった?』
東『あ、ごめん、こっちの話。でも、からかってるとか、そういうんじゃないよ。これが、僕の本当の気持ち』
菜『あわわ……あ、ありがとうございます』
こんな会話の流れの後、菜々は恥ずかしさがテッペンまで来てしまい、もはや何が何だか分からなくなってしまったのだ。
そうしているうちに、二つ目のバス停が来てしまう。
『じゃあ、伊藤さん……また明日ね』
月明かりの下の東先輩は、色が白いせいか、うっすらと頬に赤みが入っているのがよく分かった。
そこまで回想した菜々は、その時初めて気づいたのだ。
「どうしよう……返事するの……忘れてた」
携帯電話を握り締め、菜々は青ざめる。
『はいはい、オチをありがとう。明日、どう返事をするか、一晩ゆっくり悶々としてるといいわ』
ブチッ。
捨てゼリフと共に、雅は菜々を電話のこちら側へと置き去りにしたのだった。
そして、彼女の予言どおり、菜々は悶々とした夜を過ごすこととなる──はずだったのに、陸上で酷使した身体は、余りに正直に彼女を眠りのどん底へとたたき落としたのだった。
何の考えもまとまらないまま、菜々は次の日の太陽を拝んだのだ。
朝のランニングをしている間も、シャワーを浴びて着替えて登校を始めても、菜々の頭の中には昨夜の宿題が、終えられないままぎゅっと詰まっている。
「『まあ、綺麗(きれい)。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ』」
そんな彼女の脳を教室に入るなり、皮肉な言葉と共に雅が破裂させてしまったのだ。
※
長い長い午前中を経て、菜々はついに昼休みに突入した。
雅と一緒に取るお弁当タイムが終わっても、まだ図書室に行く勇気は出ない。
宿題が終わってないのだ。
雅は、人の宿題を目の前に出すことはしても、手伝うタイプではない。
だから菜々は、一人でにらめっこを続けるつもりだった。
なのに。
「伊藤、ちょっと顔貸せ」
前回、あれほど雅にひどい目に遭わされたというのに、またも東努がやって来てしまったのである。
いや、ひどい目に遭わされた事に懲りているからこそ、菜々一人を教室から引っ張り出そうとしたのだ。
「『伊藤さん、お手間を取らせて申し訳ありませんが、ちょっとお付き合いいただけませんでしょうか?』でしょ?」
椅子の背もたれ越しに、雅が美しくも鋭い訂正を入れる。
うぐっと、努は唇を閉じる。
「ここで菜々が、『いやです』って答えたらどうするつもりなの、あんた? それでもいいなら、答えは分かってるんだから、さっさと帰ることね」
その閉じた唇めがけて、雅は更に言葉のミサイルをねじ込む。口の中では、さぞや爆発が連続して起きていることだろう。
「……い、伊藤さん、お手間を取らせて申し訳ありませんが、ちょっとお付き合いいただけませんでしょうか!」
これでいいんだろうと言わんばかりに、あの東努が、半ばヤケクソのようではあったが、ついに折れたのだ。
菜々は、感動の光景を見ている気分だった。
雅ちゃん、スゲェと。
すっかり、他人事だったのである。
しかし、努と雅の視線が両方一度に菜々に向いたため、はっと彼女は我に返る。
ここまで折れられて『いやです』と言おうものなら、菜々は悪者ではないか。
「え、あ、はい」
カタンと席から立ち上がって、菜々は彼の方へと向かった。
話は分かっている。東先輩のことだ。
彼は菜々のことを好きだと言ってくれて、菜々も勿論彼のことが好きなのだ。
ということは、いつかは必ずこの努と、わだかまりを解消しなければならない時が来るということ。
いまの菜々にとっては、東先輩と顔を合わせるよりも、彼と顔を合わせる方が、よほど気楽だというから、おかしな話である。
フンと、鼻息も荒く先を歩く努は、廊下の突き当たりの非常階段に向かう扉を開ける。
秋晴れの空が、抜けるほど青い。
今夜は、素晴らしい名月が見られることだろう。
菜々が釣られて非常階段に出ると、逆に彼は一度戻り、廊下に続く扉をバタンと閉めてしまった。
しかし、ガラス窓のついている扉のため、隠れることは出来ないだろう。
それに気づいたのか、努は一度宙を見上げた後、階段を降りてゆき、踊り場のスペースで足を止めた。
確かにそこならば、多少の人目はごまかせるだろう。
おそるおそる、菜々もそこへと降り立った。
「あー……伊藤、兄貴に何を言われたかは知らないが……本気に取らない方がいいぜ」
頭を、ガッシガッシとかきまわしながら、努は彼女に視線を向けずに、やや乱暴な口調でいきなり言い放った。
「兄貴には、ちゃんと『彼女』がいるんだからな!」
体育会系の強いまなざしを持っているはずの男の目は、大きく揺れながら、菜々にそう鋭い言葉を突きつける。
そのギャップを理解できるほど、いまの菜々には心の余裕はない。
突然の展開に、頭の上に「?」を浮かべたまま、ほけーっと努を見上げるしか出来なかった。


