オセロ風景〜坂道と図書室

「兄貴、帰るんだろ? 一緒に帰ろうぜ」

 東努は、最初から完全に菜々を無視していた。

 ただひたすらに、兄だけを見て、兄にだけ語りかけている。

 彼にとって菜々という人間は、視界に入れるのもいやなのだろう。

「努……僕は伊藤さんに用があるから、先にバスで帰っていいよ」

 この空気で言えば、兄弟仲良く帰るべきところだ。でなければ、菜々は努に更に敵対視されることだろう。しかし、東先輩はその空気を無視した。

「バス停、すぐそこだろ?」

「最近、少し歩いているんだ」

「身体冷やすことするなよ、兄貴。また、熱出すぜ」

「……努」

 兄の言うことに、ことごとく反抗する彼を、東先輩は強めに名を呼ぶことで止めた。

 菜々は、居心地が悪いこと他ならなかった。

 どう考えても、自分がこの兄弟の不和の種になっているのだ。

「先輩、私……大丈夫ですから」

「あ、駄目だよ、伊藤さん。ごめん、それは駄目なんだ」

 いたたまれなくなって、走って逃げ出そうとした菜々だったが、その動きは途中で止められた。

 大きくて温かい手が、菜々に痛みを与えないように、しかし、しっかりと彼女の手を掴んでいたのだ。

 え、ええ!?

 意味も分からないまま、触れ合っている事実にびっくりして、菜々は思わず足を止めてしまった。

「努、頼むから、今日は、先に、帰ってくれ」

 一言ずつ区切りながら、東先輩は弟を促した。

 頼んでいる口調というよりは、命令に近く感じるのは、兄という立場のなせる技だろうか。

「……分かったよ」

 不承不承、しかし菜々を睨むのを忘れずに、彼の弟は早足でバス停へと駆けて行った。

「ごめん、伊藤さん。恥ずかしいところを見せたね」

 ちょうど外灯のそばにいたおかげで、先輩が少し赤くなっているのが見える。

 弟に過保護にされている自分を見られて、きっと恥ずかしいのだろう。

「嫌われちゃってますね、私」

 菜々は、その事実を本当であれば、苦く受け止めるべきだった。

 だが、いまの彼女には、余り心の余裕がない。

 何故ならば、東先輩は、まだ菜々の手を捕まえ続けているからだ。

 もはや、彼女は逃げないというのに、だ。

 多くの神経を、握られている手に集中させてしまう。菜々は、むずむずする虫が、肌の上を這っている気がした。

「努は、伊藤さんを嫌うほど、伊藤さんのことを知らないよ」

 握られた手が、軽く引かれる。

 そのまま離されるのかと思ったのに、東先輩はそうすることなく歩き出す。

 さっきまでよりも、もう少し遅い足取りだった。

『嫌うほど知らない』

 その言葉は、妙にすっと菜々の心の中にしみこんだ。

 そう言われてみると、『嫌い』という言葉は適切ではない気がする。

「それじゃあ……『目障り』とか、ですか?」

 もしくは、『邪魔』

 それらの言葉であれば、しっくりくる気がした。

「ごめんね、伊藤さん。本当に、ただのとばっちりだから……努に隙があったら、背中の薪に火をつけていいよ」

 菜々の言葉の返事を、彼は濁す。

 カチカチ山の話題に食いつきたい気持ちはあったが、やはりどうしても握られた手が気になる。

『先輩、手……』

 そう、教えてあげればいいのだ。

 菜々がそう言えば、きっと東先輩は気がついて、手を離してくれるだろう。

 なのに、彼女の唇は重い。

 恥ずかしいのに幸せなのである。

 嬉しくて苦しいのである。

 男の子と手をつなぐなんて、中学のフォークダンス以来だ。

 そう思うと、物凄く緊張してきて、菜々は握った自分の手が、じんわりと汗ばんでいるように思えた。

 それが恥ずかしくて、つい手をもじ、と動かしたら、握っていた先輩の手もまた、ずれに気づいたのか動く。

 あっと、菜々の心が一気に冷えた。

 今度こそ、東先輩が手を離すと思ったのだ。

 だが。

 彼は、自分より小さな菜々の手を、おさまりのいいように握り直したのである。

 ピープー!

 彼女の頭の上のフタがぶっ飛んで、蒸気が噴水のごとく飛び出したのが分かった。

 これは、違う、と。

 違うのだと、菜々も思い知った。

 東先輩は、無意識に握っているのではなく、分かっていて握り続けているのだ、と。

 ど、ど、ど、ど、どういうことー!

 焦れば焦るほど、菜々の言語中枢は死んでいき、対照的に手の汗がひどくなる。

 ただでさえ、今日は精神的にも肉体的にも疲れているというのに、こんなトドメを食らっては、膝が笑い出してしまいそうだった。

「伊藤さん……」

 また、手を握り直される。

「ひゃいっ!」

 飛びのきたいほどびくっとした心は、発音しきれていない情けない言葉で表される。

 恥ずかしくて死にたいと、菜々が本気で思う瞬間だった。

「伊藤さん……僕は」

 足が、止まる。

 先輩は、彼女の方を見ない。

 前というより、少し外側の斜め上を見ている。


「僕は……伊藤さんが好きだよ」


 生まれて初めて、好きな人からもらった告白は──綺麗な月夜の下だった。