オセロ風景〜坂道と図書室

 その日。

 菜々は初めて本を返却した後、借りなかった。

 突然の、次巻の喪失に呆然としてしまったせいだ。彼女は、突然『太宰治』を喪失したのである。

 10巻で読んだ『断崖の錯覚』を思い出すほど、菜々の目の前には断崖が見える気がした。

 しかし、図書室に本は溢れるほど存在している。

 太宰だけが、菜々の世界の全てではないはずだ。

 だから。

 だから菜々は、心のどこかで期待していたのである。

 東先輩が、次に別の作者の本を、彼女に勧めてくれるだろうと。

 なのに、彼は10巻の返却を受け付けた後、カウンターから立ち上がらなかった。

 いつものように、本の林へ向かわなかったのである。

 カウンターを挟んで二人、いつの間にか黙り込んでいた。ゆうに二分は、そうしていただろう。

 何かに夢中な時の二分とは、まさに文字通り夢のように過ぎるだろうが、何も言葉の出ない二分とは、皮膚がちりちりするほど長いものだった。

 ついに、何か言いたそうに、東先輩が唇を開いた時。

 図書室の扉は開き、誰かが本を返しに来てしまった。

 二人きりの短い二分間は、それで終わってしまったのだ。

 菜々は、とぼとぼと部活を目指した。

 手に持ったスポーツバッグの軽さは、逆に重い荷物のように、菜々の足取りをも重くする。

 昨日、自分がフルマラソンを走ってきて幸せだった記憶さえ、霞んでしまいそうだ。

 本当はそれを、菜々は東先輩に伝えたかったのである。

 もう一度、ちゃんとマラソンの世界に腰を据える覚悟が出来たと、胸を張りたかったのである。

 けれど、ぷちんと縁が切れた気がした。

 走れメロスから始まった、太宰という着ぐるみの中の先輩と一緒に歩いてきた道が、断崖で終わったのである。

『断崖の錯覚』の中で、主人公は断崖から女を突き落とした。

 菜々は──自分が、そこから落ちている気がした。


 ※


「伊藤さん」

 どうして、校門にまた、東先輩がいるのだろう。

 いつもより、もっとへとへとになった菜々は、ぼんやりと外灯の下の彼を見つめながら、そう思った。

 しかし、彼に抵抗する気力も、もはや彼女には残っていない。

 このぼんやりした状態のまま、バス停二つ分を歩くだけなのだ。

 校門から続く下りの坂道は、菜々の身体を勝手に歩かせてくれる。今は、それがありがたい。

 自然に、彼女の視線は足元に落ち、自分の足音が「とぼとぼ」という音を立てるのを聞いていた。

「伊藤さん、月が綺麗だよ」

 そんな菜々の心など知らず、先輩はいつもの穏やかな声のまま、彼女の意識を前方へと促す。

 坂道は、東に向かって下っていて、ちょうど上り始めた月が、遠くの山に綺麗に見えていた。

 丸に限りなく近いが丸ではない、黄色味を帯びた大きな月だ。

 そういえば、今朝の天気予報で「明日は中秋の名月ですね」と言っていた気がする。

 黄色い光を放つそれを見つめ、菜々はただ坂道を下る。

「ホントに綺麗ですね」

 自然と、そう答えていた。

 どれほどぼんやりしていようとも、綺麗なものはやっぱり綺麗なのだ。

 同じように、どれほど断崖から落ちてしまおうとも、菜々はやっぱり東先輩のことが好きなのである。

 これまでの、ぬるく幸せな時間が、続けばいいと思っていたし、続くだろうと彼女は思っていた。

 でも、それは何の保証もされていない上に、口約束ですらないもの。

 ようやく、雅の言っていた本質的な意味を、菜々は理解した。

 東優を手に入れろ。

 好きならば、必ず捕まえろ、と。

 この人は。

 菜々は、月から隣を歩く男へ視線を向けた。

 月と同じように、彼のことも見上げなければならない。

 この人は、どうやったら捕まるのだろうか。

 菜々には、それが分からなかった。

 優しい人である。

 穏やかな人である。

 尊敬できる人である。

 そんな男だからこそ、『好き』と伝えたならば、きっと彼は誠実に答えてくれるだろう。

 こうして、菜々を送ってくれるのだから、可能性はあるのだろうか。

 それとも。

 ただ単に、小学生時代の菜々への、お礼のつもりなのだろうか。

 菜々は、再び視線を月へと戻した。

「そうか、『月が綺麗だよ』では駄目だな……」

 ぼそり、と先輩が呟く。

 そして。

「伊藤さん。『月が綺麗ですね』」

 東先輩は、不思議な言葉を言った。

 同じことを繰り返しているように見えて、微妙に違う。どうして、年下の菜々に敬語を使うのか。

「は、はい、綺麗……ですね?」

 戸惑いながらも、菜々はもう一度答えた。

「……」

 東先輩は、考え込むように黙る。

 菜々は、何か間違っただろうか。

「だ、太宰ですか?」

 はっと気がついて、彼女はそれを口にした。

 もしかして、いままで読んだ彼の作品に、そういうセリフがあったのではないか、と。

 そうしたら。

 先輩が、困ったように眉を寄せて笑うのだ。

「そうか、ごめん。太宰じゃないよ」

 坂を下り終える頃には、月は一度見えなくなってしまった。

 手前にある建物が、それを隠してしまったのだ。

「あー……太宰は、こういう話には向かないな」

 東先輩は、何故か少し照れたように笑った。

「昨日から、随分考えていたんだよ……伊藤さんに、どう言おうかって」

 外灯の下をひとつずつくぐりながら、彼の声を聞く。

 ああ、太宰治のことかと菜々は思った。

 次の巻がないということを、言いそびれていたのを、先輩は気にしていたのだろう。

 昨日──菜々がフルマラソンの距離を走っていたか、もしくは走り終えた余韻で、幸せだった頃。

「いえ、いいんです。太宰治、楽しかったです」

 菜々は、昨日の自分を思い出そうと頑張った。そうすれば、楽しい表情を作れると思ったのだ。

「太宰? ああ、そうか……」

 先輩は怪訝な声になって、奇妙な沈黙を作る。

 沈黙に流されるまま、交差点を曲がり大通りに出ると、もう一度月は見えるようになった。

「伊藤さん……伊藤さんに話したいのは、太宰のことじゃなくて……」

「兄貴っ!」

 月と、車の音と、二人の足音と。

 それらを全部切り裂く声が、後方から投げられた。

 ザッザと走ってくる足音。

 振り返ると、いつか菜々に絡んできた、同学年の東努(つとむ)が駆け足で近づいてくるではないか。

「努……」

 東先輩は。

 弟を確認して。

 少し苦い声を出した。