一方吉村は、ホテルのベッドに腰掛け、千彩と並んで話をしながら今までに感じたことの無い戸惑いに頭を混乱させている真っ最中だった。

会話の殆どが「なにそれ?」「なんで?」「わかった」で構成されていた千彩が、まるで別人のようにスラスラと言葉を紡ぐ。まずそれが一番の驚きと戸惑いだった。
成長だと喜ぶべきか、変わってしまったと嘆くべきか。

「ちー坊」
「んー?」
「HALさんらのことは置いといて、まずな、ボスが死んでからの話を聞かせてくれるか?」
「ボスが死んでから?」
「ボスが死んでから、ちー坊は何処で何をしてたんや?」
「んー…」

瞬時に曇った表情に、スタイリストだと言った恵介の言葉を思い出す。

変な店で働かされて。

本当だったのか…?と、再びどず黒い感情が渦巻いた。

「怖い人がいっぱい来た」
「怖い人って、会うたことある奴か?」
「うん。ママがおった時に何回も家に来てた人」
「藤極会か?」
「とーごく?知らない」
「ちー坊!大事なことなんやぞ?」
「ちさわからへんってば!」

プイッと顔を背けた千彩は、不機嫌そうに頬を膨らせていて。思えば、こんな表情すら初めて見るかもしれない。

出会った頃の千彩は、それはそれは小さく細い子供で。10歳だと聞いて目を見開いたのを覚えている。

母親の隣にただじっと座り、何をするわけでもなくただただじっと母親の姿を見つめていたその少女に名前を尋ねると、自分の名前さえ正確には知らなくて。
「まま、ちーちゃん」と、それぞれを指差しながらたどたどしい日本語で教えてくれた。

そんな千彩に、「お前の名前は千を彩るって書いて千彩やぞ」と教えたのは、何を隠そう吉村だ。
子供の相手などしたことがなかった自分が言葉を教え、文字を教え。幼児向けのワークを買い込み、二人で四苦八苦しながら学んだのは記憶に新しい。

その上千彩は、泣くことも笑うことも知らない子供だった。母親の美奈に尋ねても、「泣きも笑いもせんわー」と我が子に視線さえ向けずにそう言っていた。

吉村にとっては、千彩はいつまでもあの頃の千彩のままで。それがこんな風にコロコロと表情を変えるようになるとは、夢にも思っていなかった。

「おにーさま、はるは?まだ?」

思い出に浸る吉村の顔を覗き込むように、千彩が身を乗り出す。よく見れば、その顔にはメイクが施されていて。いつの間にこんな風になってしまったのだろう…と、まるで成長を見逃してしまった父親の気分だ。

「まだちゃうかな。それよりちー坊、仕事のことなんやけどな」
「お仕事?」
「ちー坊、何て店で働いてたんや?」
「んー。わからへん」
「ほな、オーナーか店長の名前は?」
「わからへん」
「何か覚えとること無いんか?場所とか、どんな奴がそこ連れて行ったとか」
「えーっと。家は覚えてる。角を三つ曲ったとこにあるビル」
「ビル!?よし!ほなそこ行こ!」

手がかりを掴んで意気込む吉村に、千彩はゆるりと首を振る。それが亡くなった美奈の姿と被って見え思わずハッと小さく息を呑んだ吉村に、千彩は悲しげに微笑んだ。

「はるがね、もうあっこには行ったらあかんって」
「何でや?」
「あっこはね、ちさがおったらあかん場所やったんやって。だから、ちさもう行かない」
「ちー坊…」

何と女らしい表情をするようになったのだろう。美奈もよく、こんな風に悲しげに笑んだ。その度に胸の奥が痛み、遣り切れなさに唇を噛んだ。そんな日々を思い出す。

「もう…ええわ。もう訊かんとこ」
「もういいの?」
「ええよ。ちー坊がこうして帰ってきたんや。俺はそれで十分や」

伸びた髪をゆっくりと撫で、そっと抱き寄せる。ほんのりと甘い香りが余計に胸を締め付けた。

「今日はここに泊まろうな。ほんで、明日帰ろう」
「え?」
「帰って二人で暮らそ」
「イヤ!」
「またそんなん言うて」

宥めようと伸ばした手を払われ、吉村は目を瞠る。
今まで、どんな時でも千彩が自分の手を払うことなどなかった。当たり前に頭を撫で、当たり前に抱き締めてきた。それを拒絶されたような気がして。

「はるは嘘つかへん!迷惑ちゃうって言ったもん」
「それはやなぁ…」
「ちさ、はる大好きなんやもん。はるもちさ大好きって言ってくれるもん!」

それは好きの意味が違う。

そう出掛かった言葉を、慌てて呑み込む。
恋を叶えてやりたいのはやまやまだけれど、それには無理があり過ぎるのだ。

相手はもう大人なのだ。その上、カメラマンという華やかな職業に、モデルと間違うほどの容姿。そこいらの女が放っておくはずがない。
選びたい放題の中で、こんな年端のいかない小娘など相手をするはずがない。

はぁぁっと深く息を吐き、ふと思考の端に引っ掛かりを感じる。あの男、「俺はお前を離したくない」と言っていなかったか?と。

「ちー坊、ちょっと訊きたいんやけどな、HALさんとはどうゆう関係なんや?」
「どうゆう関係?」
「その、何や、あのー…」

言い淀む吉村の顔を覗き込み、千彩がしゅんと眉尻を下げた。そして手を伸ばし、吉村の皺の寄った眉間をゆっくりとなぞる。

「おにーさま、怖い顔」
「おっ…おぉ」
「はるもね、いっぱいそんな顔してたけど…もうしないよ?はるはね、ちさがいっぱい大好きって言ったら笑ってくれる。だから、おにーさま、大好き」

難しいことは、おそらくこの子にはわかってはいない。けれど、この子はひとの気持ちを掴むことが上手い。自分なんかよりもずっと。
堅物だと有名なボスが猫可愛がりした娘なのだ。もしかしたら…と、にっこりと笑う千彩の髪をそっと撫でた。

「ちー坊は…HALさんが大好きなんやな」
「うん」
「HALさんは?」
「はるもちさ大好きって。ちさのはるとやでって」

はにかむ千彩の表情が、いつか見せた美奈のそれにそっくりで。ジンと胸の奥を熱くする想いに、吉村は唇を噛む。

「ちー坊…お前はママそっくりになったな」
「ママ?」
「ママもな、そうやって笑ってた時があったんやで。お前は見たことないかもしれんけどな」

吉村の知る美奈という女は、とても脆く、繊細な女だった。

出会った頃は、もう既に壊れかけていた。まるで人形の如く放ったらかされていたまだ幼い千彩の面倒を懸命にみながら、吉村は必死で手を差し延べた。何度も一緒になろうと言った。この二人を自分が守っていくと決めていた。

けれど美奈はその手を拒絶し、可愛い我が子を置き去りにして旅立った。

「ママがね、キスは大好きな人同士がするって教えてくれた」
「え?おぉ、そうやな」
「ちさとはるもいっぱいキスするよ?大好きな人同士やから」

こんなにも幸せそうに笑う千彩を、吉村は今まで見たことが無い。

可哀想な子だ。
不憫な子だ。

皆がそう言っていた。可愛がって面倒をみてきた吉村自身とて、何と不憫な子だろうと思っていた。

そんな憐れみからではなく、あの男はこの娘を心底「大好きだ」と言うのだろうか。男と女として、自分が美奈に手を差し伸べたように、あの男もこの娘に手を差し伸べていると言うのだろうか。

当時の自分の想いと重ね合わせ、そして知る。行くな…と涙を零した男の想いを。

「ちー坊?」
「ん?」
「皆さんが来たらな、おにーさまだけで話するわ」
「なんで?ちさは?」
「大人の話し合いやからな、ちー坊には難しいからこの部屋で待っててくれへんか?」
「イヤ!ちさはると一緒におる!はると行く!」

泣き出しそうな千彩の頭をそっと撫で、少しだけ声音を優しくする。

「話が終わったら、ちゃんと会わせたるから。な?」
「ほんま?」
「ホンマや。約束する」

渋々頷いた千彩の頭をもう一度ゆっくりと撫で、素直に育ってくれて良かったと改めて思う。そして、まるで娘を盗られた父親のようだ…と深いため息を吐いた。