常通り、淡々と撮影を進めること数時間。
最後の撮影を終え、缶コーヒー片手に晴人はふぅっと一息つく。
そこへ、カツカツと歩み寄るヒールの音。眉根を寄せ、振り向きもせずにその人物を待った。

「はーるっ」

視界の隅で、クルンと長い巻き髪が揺れた。

「よぉ、MARI。さっきぶり」
「ふふっ。そうね」

一つ前に撮影を済ませたモデル「MARI」は、何を隠そうリエの前に晴人の恋人だった女で。別れがアッサリとしていただけに、その後の仕事にも支障は無い。

「今夜飲まない?久しぶりに」

モデル達は、決まってこの誘い文句を口にする。そしてそのまま上手い流れに持ち込み、腕の中で強請る。

ねぇ、
私を恋人にしてよ。

と。

「悪い。予定あるんやわ」
「リエとは別れたんでしょ?」
「別れた」
「だったら…」

缶を片手に携帯を開こうとした晴人の手を、綺麗にアートの施された指先が制した。

「MARI」
「なぁに?」
「お前とはもう終わったはずなんやけど」
「いいじゃない。子供じゃあるまいし」

そっと頬に触れる指先に視線を落とし、一つため息を。甘ったるいパーヒュームの香りと視界を侵食して行く指先の赤に、ジンと脳の奥が痺れる気がした。

「今日は勘弁して」
「どうなの、それ。今日じゃなきゃOKってこと?」

振り返ると、腕組みをしたメーシーが不機嫌そうに眉を寄せている。

「泣いちゃうよ?それとも、そうゆう趣味?」
「いや…違うけど」
「いただけないねー、そうゆう態度」

意味深に含み笑いを見せるメーシーに邪魔をされ、擦り寄ろうとしていたマリは口を尖らせた。

「邪魔しないでよね、めいじ」
「あ・き・は・るだからね、俺の名前」
「いいじゃない、別に」
「麻理子ってホントおバカさんだよね、昔っから」
「たかだかヘアメイクが気安く呼ばないで」
「あっ、ひでーの。誰のおかげでHALに綺麗に撮ってもらえると思ってんだか」

昔馴染みだと言うこの二人。口喧嘩ばかりをしているけれど、それなりに仲は良いものだと思っている。
だからこそ、モデルの中で絶大な人気を誇るこのアーティストを「たかだかヘアメイク」などと言えるのだ。これが他のモデルだったならば、いくらフェミニストを気取るメーシーでも黙ってはいない。

「何の用?邪魔なんだけど」
「ん?そっちこそ」
「アタシはHALを誘ってんの」
「ダメダメ。HALは大事な姫を迎えに行かなきゃなんねーんだから」
「姫?誰よそれ。新しい女?」
「さーね。気になるなら本人に聞けば?」

その言葉に、マリの細い腕が晴人の胸元へと伸びた。それを視線だけで追い、その手を退けるためにそっと一歩下がる。

「どうしたの?」
「ごめん。今日はホンマ無理」

並べていたカメラを手早く片付け、一呼吸置く。そして、改めてマリに向き合った。

「俺、好きな女がおるんや」
「は?」
「他の女なんか目に入らんくらい惚れてる」
「なっ…えぇっ?嘘でしょ?」

驚くマリの大きな目は、こぼれ落ちんばかりに見開かれていて。それを見てとうとう笑い出したメーシーが、晴人の肩をポンッと叩いた。

「顔真っ赤だよ?王子」
「いやぁ…なぁ?」
「あのHALがねー。変われば変わるもんだ」
「喧しいわ」

頬を抓もうとするメーシーの手を払い落とし、赤くなった顔を隠すように俯いてガシガシと頭を掻く。こんな純情、中学生の時以来だ。そう思うと、余計に照れくさくて。

「あー!もう!行こうや、メーシー」
「照れちゃってー。姫にもそれ言ってやんなよ?絶対喜ぶって」
「ええから!ほら!」
「はいはい。じゃーね、麻理子」
「えっ、あっ…ちょっと!」

名を呼ばれて我に返ったマリが、去って行こうとする晴人の腕を慌てて掴む。

「ねぇっ」
「だから…」
「ホントだったの?噂」
「噂?」
「結婚したの?姫って、好きな女ってその相手のこと?」
「いや、それは…」
「そうそう。だからもう皆のHALじゃない。モデル仲間にもそう教えたげるといいよ」
「ちょっ…メーシー!」
「いーじゃん。どうせ隠しててもそのうちバレるって」
「いやっ、そうやなくて!」
「はいはーい。愛しい姫を迎えに行こうねー。じゃーねー、麻理子」

強引に腕を引かれ、よろけながらスタジオを後にする。置き去りにされたマリは、ただただポカンと呆けていた。

「メーシー!」
「ん?」

デスクに鞄を置き、ご機嫌に鼻歌でも歌い出しそうなメーシーを呼び止める。にっこりと微笑まれ、叱り付けようとしていた晴人は少し怯んだ。

言いたいことは色々あるのだけれど、どうにもその笑顔に阻まれて。
結局何も言えず、両手をデスクに付いてはぁぁっと項垂れる羽目になった。

「どーした?」
「どーした?ちゃうわ」
「平気だって。アイツは言い触らしやしないよ。そうゆう女」

ふふっ。と笑うメーシーに、じとりと恨みがましい視線を向けるも、やはり笑顔でかわされて。食えない男だ…と、ため息の色を濃くした。
そんな晴人に、メーシーはいつかリエに言った台詞をプレゼントする。

「俺はさ、お似合いだと思うよ?君達二人」

ふふんと鼻を鳴らしながらそう言ったメーシーに、晴人は複雑そうに顔を歪める。それに更に追い撃ちをかけるようにメーシーは言った。


「惚れてんだろ?あの子に」


それは、茶化すわけでも嘲笑うわけでもなく、ただただ真っ直ぐな言葉で。カッと頬が紅潮して行くのがわかった。

「もうええって、それ」
「いやいやー。俺は忘れないよ?」
「頼むから忘れてくれ。失言や」
「いいんじゃね?大人だからって素直になっちゃダメってことはないと思うけど?」

素直に。

その言葉がズキンと胸に響くと同時に、急激に不安が押し寄せて堪らず俯いた。

「なぁ、メーシー」
「ん?」
「何とか…なるやろか?」
「え?なになに?」
「そんな心配すんなってー。何とかなるやろ!」

顔を上げるとそこには陽気に笑う恵介の姿がある。

「そんな情けない顔すんなってー。ほーんまお前は昔っから不器用って言うか何て言うかなぁ。何気にグルーミーやしな」
「喧しい」
「大丈夫、大丈夫!何とかなるやろー」

あははー。と陽気に笑う恵介は、紛うことなく親友で。一番欲しい言葉を絶妙のタイミングでくれるものだから、思わずポロリと零れた。


「ありがとうな、恵介」


それに不満げに「俺はー?」と尋ねるメーシーにもお礼を言い、帰り際に吉村に貰った紙を広げる。


時刻は17時を少し過ぎたところ。夏の太陽が、空を茜色に染めていく途中だ。