ずぶ濡れの小さな女にグイグイと手を引かれ、頼りなく傘を持った男がフラフラとメイン通りを横断する。そんな不思議な光景が、出会いから数分も経たないうちに大都会の歓楽街で繰り広げられた。

この街ならではの「無関心主義」が、混み合うメイン通りを俯いて横切るハルの羞恥心を幾ばくか和らげる。ふと足元を見遣れば、汚れた素足が目に入った。

「ちょっ…裸足やん」

手を引くも、サナが立ち止まる気配はない。それどころか、余計に速度が速まった感じさえする。
諦めてため息を呑み込み、ハルはただ黙々とその後を追った。

いつしか雨は止み、邪魔になった傘は手放していた。


「ここ」


漸く立ち止まったサナがボソリと呟く。ビルを見上げるサナに釣られ見上げたものの、あまりの不気味さにハルは身震いを隠せなかった。

いかにも「ナニカ」が出てきそうな、明かりの一つも灯っていないビル。あの世のモノでも、この世のモノでも、とにかく恐ろしい「ナニカ」が出てきそうなそんなビルに、ハルの整った眉が少し寄る。しかめっ面で躊躇うハルに、サナは言った。

「ここ、お家」

こんなところが?と言いたげに首を傾げるハルの手を離し、サナは扉を押し開く。予想と寸分たがわぬギィィという重苦しい音を立て開く扉に、眉根がまた少し寄った。

知らぬ顔をし、サナは扉の向こう側へと姿を消してゆく。

「あぁ!待って、サナちゃん」
「こっち。手、貸して」

ビルの内部に入ると、それはまさしく「暗闇」で。手を引かれながら覚束無い足取りで暗闇を進み、ハルはサナの手と手すりを頼りに階段を上った。

目が暗闇に慣れ、徐々にではあるが周りが見えるようになり始めた頃、サナがピタリと立ち止まった。それを真似て、ハルも同じように立ち止まる。

「あかり持って来る。ここ座ってて」

そう言って指されたのは、「おそらく」ソファだった。

いくら暗闇に慣れたと言えど、完全に判別出来るまでにはそれなりの時間を要するというもので。恐る恐る腰かけ、曖昧に認識したままだった物が明確になった安堵でハルは少し頬を緩ませる。
とは言え、廃墟に近いだろうこのビルの暗さと湿度の高さ、加えて埃臭さに不快感は拭えない。

大きさは、二人掛けくらいだろうか。布製のソファに、毛布が一枚と枕が一つ無造作に置いてある。ここで寝起きしているのだろうか。と、手持無沙汰にハルがその枕を抱え込んだ途端、クスクスと小さな笑い声が起こる。シンと静まり返った部屋には、それがよく響いていた。

「怖い?」
「あぁ、いや、そうゆうわけちゃうんやけど…」

慌てて枕を手放すと、ハルは照れ隠しに頭を掻きながら顔を背ける。サナの持って来たキャンドルの明かりで、そんな姿が丸見えだとも露知らず。

灯りを揺らめかせながらゆっくりとテーブルに置き、サナはソファの下へと座り込んだ。

「サナちゃん」
「はい?」
「灯りってそれ?」
「そうです」
「電気とか…は?」
「電気は…お金を払っていないのでつきません」
「点きません…って」

そこまで言って、とうとうハルが噴き出した。それはもう、盛大に。
不思議そうに首を傾げるサナの長い髪に手を伸ばし、もうすっかり冷えてしまったそれを一掬い口元まで引き寄せると、息を整えて柔らかに笑う。キャンドルの灯りが、そんなハルの表情に柔らかさを足していた。


「お風呂入りに行こっか。俺の部屋に」


改めて直視したハルの顔に、サナはとても驚いた。

優しげに細められた目に、口元から覗く八重歯。「美形」と称されるような、そんな男。

驚きに目を丸くしたサナが、同時に少しだけ身を引く。それを躊躇いと解釈したハルは、手を伸ばしてゆっくりと頭を撫でた。

「嫌?」
「オニーサン…の、部屋はここから近いの?」
「近いよ。新大久保やから」
「どこ、それ」

ちんぷんかんぷんだ。と、サナは笑う。雨と涙でメイクがぐしゃぐしゃになった後の顔で無邪気に笑うサナを抱き寄せ、ハルは冷えた頬に自分のそれをピタリと寄せた。


「逃げてまおっか、二人で」


驚いたサナが体を離そうとするも、しっかりと肩を抱く腕の力にそれは叶わなかった。密着した体が伝えるものは、互いの冷たさと温かさ。

「冷たい体やな」
「オニーサンは…あったかい」

止まっていたはずのサナの涙が、再び零れ落ちた。涙が伝うそこだけがほんのりと温い。柔らかく、ハルには見えない位置でサナが笑む。

「大事なもんだけ取っておいで。他は全部俺が買うたるから」
「なんで?」
「俺がそうしたいから。ってのは理由にならんか?」
「よく…わからん」

理由はどうでも良かった。


ただ、誰かが傍にいる。
ただ、誰かの傍にいる。


そんな何かに満たされたような瞬間は、サナにとってもハルにとっても、渇望していた瞬間だった。