チェリとルイル

「は? 馬鹿? あんた大馬鹿!?」

 あのニタが、驚きの余り椅子から転げ落ちそうになっていた。

 ルイルは。

 魔法使いルイルは──チェリの家に乗り込んでいた。

 彼女は、溶ける家を持っていないため、日常の知ることの出来る範囲は狭い。

 そのせいか、彼の襲撃をすぐには気づけなかったようだ。

 ということは、チェリをいたぶっていたのは、本当に純粋に彼女が嫌いだったのだろう。

 家の中は、とんでもない有様のまま。

 片付ける気もなかったのか、はたまた懲りずに家に溶けようと思っていたのか。

「何で、のこのこ家を出てきてんのよ!」

 いますぐ飛んでって、家を奪うわよ!

 ニタの裏の言葉など、すぐに見える。

 だが。

「行けばいい」

「ちょ……魔法使いさん……」

 ルイルを追ってきたチェリが、息を切らせながら真後ろにたどり着く。

 いまは言葉よりも、全速力で追いかけてきた呼吸を、取り戻すことが先決だろう。

 彼の行動や言葉に、チェリはまったく追いついていなかった。

 そんなこと。

 ルイルですら、自分に追いつけていないのだから、しょうがない。

 理にかなわぬことを、どうしてもしてしまう時。

 それが、ルイルにとっては今だった。

「頭……おかしくなったんじゃないの?」

 あのニタが、あきれ果て、しかし驚愕は隠せないでいる。

 大魔法使いの娘は、それ以上問いかけるような間抜けではなく、本当に言葉通りすっ飛んで行った。

 やっと、静かになる。

 問題児がいなくなり、ふぅと彼が息を吐くと。

 後ろに抵抗感が生まれる。

 振り返ると、チェリが彼のマントを掴んでいた。

「あの……家! 大事な家!」

 開けっ放しの扉を指して、まだ息をぜいぜいきらしながらも、彼女は一生懸命ニタの野望のことを訴える。

 何故か、半ベソになっている。

 ルイルは、息を整えた。

 マントから彼女の手を外し、ちゃんと向かい合う。

「私を……ここに住まわせろ」

 チェリが。

 どうしても、この家を捨てられないというのなら。

 自分が、ここに来ればいいではないか。

 それが──ルイルの掴んだ答えだった。


 ※


「え? あ? う?」

 チェリは目を白黒させながら、奇妙な言葉を発している。

 彼女が落ち着くまで、ただ待つ。

 だんだん、彼女の眉がハの字に落ちてゆく。

「でも……魔法使いさんの大事な家……」

 何を、不安がっているのだろうか。

「時間はかかるが、ここも家になる」

 自分がいいと言っているのだから、それでいい。

「あの……でも……どうして?」

 どうして?

 愛に、気づいた。

 だからそれを、ルイルはそのまま口にしようとしたのだ。

 したのだ。

 したのに。

 突然、口は鉛のように重くなっていた。

 いままで、感じたこともないような怖さが、胸を突いたのだ。

 愛の扉の隙間から、何故か恐怖が転がり出る。

「嫌いじゃない人と……一緒に住みたいって、言ったから?」

 その恐怖を。

 ふっと和らげてくれたのが、チェリの問いかけだった。

 ああ、そうだ。

 彼女は、もう一人でいる必要はない。

 誰かが必要だというのならば、ルイルが今度こそ、ここにいればいいではないか。

 十七年前、出来なかったことを──これからやればいい。

「ああ」

 ようやく、自分の唇を開けることができた。

 更に。

「ひとつ訂正だ」

 鉛の唇を、こじ開ける。

 これまで、必要のなかったところから、ルイルは勇気とやらを奮い起こさなければならなかった。

「嫌いではない……ではなく、好きだ」

 愛とは何と──ままならないものか。


 ※


 チェリは、突然ばたんと倒れ──そうになったので、ルイルはその身を抱きとめた。

 熱を出したようだ。

 その顔は熱く、真っ赤になっている。

 多くのことがあったので、きっと疲れたのだろう。

 とりあえずベッドを整え、彼女を横にする。

 そして。

 とんでもない部屋の状態を、少し時間をかけて直した。

 魔法使いの家と勝手が違い、思い通りに動かせないところが多々あったのだ。

 分かっていたことだ。

 ここは、自分の家ではない。

 ままならないことも、多くあるだろう。

 だが、ゆっくり家に馴染んでいけばいい。

 これから、愛の真理と一緒に暮らすのだから。

 いつか、この家に溶けられるようになるだろう。

「まほう……使いさん」

 か細く呼ばれ、ルイルは彼女の枕元へ立った。

 彼は、チェリに魔法をかけていた。

 あの家ほどの効きはないだろうが、少しは熱は抑えられているはずだ。

「私……うるさいですよ」

 何を、言い始めるのか。

「いい」

 かなり下層に身体も馴染み、最初ほどではない。

「うち……お茶もないし」

 ニタに、何か文句でも言われたのだろうか。

「かまわん。お前がいればいい」

 チェリは。

 ぽおっと、首や耳まで赤く染まった。

 毛布を握っている、その指先さえも、赤くなっている気がする。

 そんな彼女の唇が。

 小さく。

 動いた。

「好きな人と一緒に暮らせるって…幸せですね」

 その一言が。

 どんな事象よりも、ルイルを幸福に叩き落した。

 身体には何の問題もないというのに、眩暈にも似た感覚に掴まったのだ。

 愛の扉が、ほんの少し開いただけでこの騒ぎなら。

 扉を全て開けてしまったら、ルイルは、どうなってしまうというのだろうか。


 その答えは──チェリの向こう側にあるのだろう。



【終】