「昨日、ニタさんが来ました」

 お茶を飲みながら、チェリは不穏な名前を口にした。

 師匠の娘で、魔法の才能は物凄いものの、性格がとんでもなくねじれよれまくった魔法使いだ。

 ルイルが上層にいる時は手を出せないでいるが、下層に降りてきたと知るや、すぐにこの家を奪おうとする。

 前回、彼はひどい失態をさらしてしまった。

 チェリが出てこないよう、家に一部を溶かしたままニタに立ち向かってしまったのだ。

 どう考えても、勝つ見込みがなかった。

 おかげで、ルイルはあっさりと意識を持って行かれてしまった。

 結局、最上層にいる師匠に助けてもらったこととなり、彼にとっては思い出したくない黒歴史となったのだ。

『それが、愛というものじゃよ』

 自分でも分からない、不可思議で理にかなわないことをしてしまった後、師匠はよくそう言った。

 愛の真理は、他の真理とは違うところにあって。

 ルイルは、まだうまくそれに触れられないでいる。

 それに触れられないと、最上層に行く魔法使いに、なることは出来ない。

「ニタさん、しばらくうちに住むそうです」

 ルイルの思考の流れは、チェリの一言で簡単に粉砕された。

 何を考えている?

 妹という嘘の記憶で利用され、ひどい目にあわせられたというのに、そんな相手と一緒に住むと決断するのは愚かな判断に思えたのだ。

 ニタはニタで、今度は何を企んでいるのか。

 下層では、森までしかルイルの感知は及ばない。

 森の入口にある、チェリの家のことは分からないのだ。

「お父様に言われたから、しばらくうちで暮らしてみるって言ってました」

 師匠…。

 ルイルは、遠く遥かのかの人に、意見しかけてやめた。

 どれほどの真理のそばにいたとしても、娘を愛する気持ちは揺るぎないようだ。

 だが、師匠がそう言うのならば、ニタのためにはなるのだろう。

 愛の真理をまったく知らない魔法使いと、父親と森に愛された狩人の娘。

 だが、それがチェリのためになるかと言えば、疑問は残る。

「問題があったら、追い出せ」

 ルイルに言えるのは、それくらいだった。



 ※


 あのニタが──問題を起こさないはずがなかった。

 家に溶けていたルイルには、それがすぐに分かった。

 翌日、いつものように森に狩りに入ったチェリは、擦り傷と小さなあざだらけだったのだ。

 彼女が、家を覗きこんだ時には、既にルイルは現世に戻っていた。

「わっ…こんにちは!」

 まさか、いるとは思わなかったらしく、彼女は一度驚いた後、慌てて挨拶をする。

 だが。

「何か、怒ってま…す?」

 彼の表情が、猛烈に不機嫌だったのは、すぐにチェリに伝わってしまったようだ。

 勿論、怒っている。

 ニタに、だ。

 何をやらかして、彼女に傷を負わせたのか。

 いや、負わせたことが悪いと言っているわけではない──当然悪いが。

 だが。

 ニタは、魔法使いだ。

 このくらいの傷は、すぐに治せるはずである。

 逆に言えば。

 彼女は、あえて治さなかったのだ。

 人間など、治してやる価値もないと思っているのか。

 もしくは。

 もしくは、ルイルを怒らせようと思っているか、だ。

 ニタは、そういうことをする女だ。

 村に悪さをして、ルイルを疑わせるように仕向けたのも。

 チェリの妹になりすます時、名前を『ルイル』にしたのも、そのひとつだ。

 その時、彼が上層にいるのは知っていたはず。

 上層にいれば、森の外のことも知ることが出来る。

 本物のルイルに、どんな悪行をしているか知られているにもかかわらず、彼の名前を騙ったのである。

 怒らせるために。

 とにかく、彼を上層から引きずりおろすために、彼女は本当に何でもした。

 チェリを利用することなど、心のひとつも痛みはしないのだ。

 今度は、何だ!?

 この狩人の娘を傷つけて、自分に何をさせたいのか!?

 彼が、言うことはひとつ。

「ニタを、追い出せ」


 ※


「あ、こ、これは違うんです」

 チェリは、慌てて自分の手足の怪我を、隠すような振る舞いを見せた。

「これは事故で……ええと、ニタさんがうちの家に溶けるって言って、その……」

 魔法使い二人と付き合いが出来たせいで、彼女も特殊な言葉を少し覚えたようだ。

 家に溶ける。

 まさに、魔法使いでないと言わない言葉だ。

 だが。

 愚かなことだった。

 普通の人間の建てた家に、ちょっと前に来たばかりの魔法使いが溶けようなんて。

 拒否されて当然だ。

 どんな悲劇が起きたか、ルイルには予測がついた。

 拒否反応で家が大きく揺れ、中にあるものがしっちゃかめっちゃかになる。

 暴れる家具や食器と戦って、チェリは傷だらけになったのだ。

「あの、ニタさん……がんばってただけなんです」

 見当はずれなことを言って、ニタをかばおうとする。

 いや、確かに頑張ってはいるのだろう。

 チェリの迷惑も、まったく顧みず。

 その上、怪我をさせても放置だ。

「この家を取ろうとすると、お父様に怒られるからって……」

 もうニタさん、ここを奪う気はないみたいです。

 よかったですね、とでも言いたいのだろうか。

 チェリは、にっこりと笑いながら、ルイルの平穏を喜ぶのだ。

「馬鹿馬鹿しい」

 いいわけがあるか。

 この家の平穏が、チェリの犠牲の上に成り立っていて、そんなものを自分が喜ぶとでも思っているのか。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

「で、でもでも、ニタさん、ほんとにほんとに頑張ってるんですよ!」

 彼女は、あのひねくれた魔法使いのことを、まったく分かっていない。

 ルイルは──入口の扉を、バタンと閉めた。

 びっくりして、彼女が振り返ってしまうほどの強さで。

「今日は、泊まれ」

 ニタの思惑に、簡単に乗る訳にはいかなかった。