箱の中の彼女



「真治さん…大人って、なんすかね」

 孝太は、ため息をつきながら、ぼそっと呟いていた。

「孝太…熱があるなら、早めに薬もらっとけよ。来週試合だろ?」

 あっさりと、彼の質問は蹴り飛ばされる。

「オレ、本気で聞いてるんすけど…」

 先日、美奈子を前にして自分の気持ちに気づいた孝太は、自分の感情を持て余していた。

 リングに上がっている時は、他のことを考える暇などないが、夜は彼にとって悩ましい時間でもあったのだ。

「大人ねぇ…ボクサーには関係のない言葉だな」

 本気の悩みを、真治はあっさり斬って捨てた。

「え? なんでですか!」

「あったりまえだろ? 相手どつき倒して金もらおうなんて考えてる奴が、物分りのいい大人になんてなれるか? そんなことを考えるのは、引退してからだ」

 彼の見事な正論に──孝太の計画は打ち砕かれた。

 そ、そうだったのかっ、と。

「逆に言えば、大人になんぞなってしまったら小器用な戦いしか出来なくなんぞ…ボクサーなんか、子供でナンボだ」

 言われて、じっと自分の拳を見る。

 孝太には、これしかない。

 他の生き方が、想像つかない。

 近所に、このジムがあったのが運のツキ。

 小学生の頃から、いつも窓から覗き込んでいた。

 カッコイイなぁ、と。

 その時代、このジムには、世界チャンプが一人いた。

 大きな試合があると、取材が来ることもあったが、大人がいると小さい孝太は見られないので好きじゃなくて。

 試合の合間の、取材の来ない時期に、窓ガラスにへばりついていた。

『なんでぇ、坊主。ボクシングが好きなのか?』

 声をかけてきたのは、そのチャンピオンだった。

 口下手な孝太は、ただコクコクと首がもげんばかりに肯くしか出来ない。

『お前を知ってるぞ、坊主。もう三年近く通ってきてるだろう…中ぁ、入れ。好きなだけ見ろ』

 大きな大きな手が、彼をジムの中へと押し込む。

 汗臭く、男の苦しい息遣いのひしめく世界。

 ああ、ああ。

 ただボクシングを好きだと思っていた孝太は──その瞬間、ボクシングに恋に落ちたのだ。


 ※


 チャンピオンは引退し、彼はいま孝太のトレーナーになった。

 中学三年の頃、親の転勤の話が出て、ボクシングのことで相当すったもんだのやり取りがあったが、結局トレーナーが預かってくれることで、孝太だけ残ることが出来たのだ。

 高校に行かず、ボクシングで身を立てる。

 その言葉を言った時の、親の呆気にとられた顔は、いまでも忘れられない。

 第一。

 孝太の脳みそでは、受かる高校などたかが知れていたのだ。

 17になれば、プロ試験が受けられる。

 高校に行く暇など、なかった。

 結局、彼はトレーナー預かりとなり、ただボクシングに打ち込む日々を送ることが出来た。

 かくして、17歳でプロ試験に合格。

 拳で金を、稼ぐ人間となったのだ。

 殴られるのは痛い。

 けれども、負けるのはもっと痛い。

 ただ、それだけの単純な理由で、孝太はただただ勝ち続けてきた。

 プロ成績での敗北数は、1つのみ。

 このまま行けば、フライ級チャンピオンとの挑戦権だって手に入る。

 背がそんなに高くない日本人は、フライ級で登録している者も多く、現在のチャンピオンも日本人である。

 体重50.8kg以下。

 絞りに絞った身体で、3分を戦い抜く。

 3分で、相手をぶっとばすことを考え、1分休む。

 そしてまた、相手をぶっとばすことを3分考える。

 その永遠とも思われる繰り返しを、断ち切れるかどうかは自分の腕にかかっているのだ。

 リングに上がった孝太は、相手をただただ倒すことに集中する。

 その集中力が、トレーナーにおまえの長所だと言われた。

「だから、大人になろうなんて馬鹿なこたぁ考えんな」

 真治のとどめの言葉に、孝太は頭をバリバリとかきむしる。

 それでは、美奈子は振り返ってくれないではないか。

「じゃ、じゃあ、『男』になる方法ってありますか!?」

 大人がダメなら、男だ。

 孝太は、彼女をあきらめ切れなかった。

 ボクシングで培った不屈の精神は、こんなところでも生かされていたのだ。


 ※


「『男』になる方法っていやぁ…」

 ニヤァリ。

 真治の顔が、いやらしく緩んだ。

「そうかそうか…そういや、お前は行ったことがなかったよな! よし、今日は俺のおごりでいいところに連れて行ってやる!」

 お前も男になれ!

 がっしりと。

 彼は孝太の肩を、渾身の力で掴むのだ。

「え、ちょ、真治さん?」

 ワケが分からないまま、孝太は引きずられて行った。

「おーい、お前ら。どこ行くんだ?」

 他の部屋に住んでいる先輩に、不審げに声をかけられる。

「ちょいと、孝太を『男』にしにな」

 真治は、浮かれ騒ぎながら答えるのだ。

「あー…そうか…清らかな孝太は、今日で見納めか。ご利益があるかもしれんから拝んどくか」

 パンパン。

 どうして自分はいま、拍手を打たれて拝まれているのか。

 大体。

 真治は、どこへ連れて行こうと。

「わぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 結果──彼は、その店を飛び出して、一人で部屋へと逃げ帰ったのだった。

 心臓が、ばっくんばっくんしている。

 何だか分からないケバい女に、何だか分からない間に、何だか分からないことをされそうになったのだ。

 身体の快楽のことくらい、孝太にも分かる。

 一人で抜いたことだってある。

 だが、他の女を前に、そんなことをしようと思ったら。

 頭が、自動的に彼女の顔を美奈子にすげ替えてしまったのだ。

 そう考えてしまったら、もうダメだった。

 真治を置き去りに、彼は自分の部屋に戻っていたのである。

 ああ。

「美奈子さんに…会いてぇな」

 ボクシングをしていない時は──彼女のことばかりが、こうして孝太の頭の中を占め続けたのだった。