「はい」

「阿久津くんのことなんですけど」

突然のその言葉に、心を見透かされたような心地がした奈緒は、思わずマスターの顔を見上げた。

マスターは意を決したように、大きく息を吐く。

「まだ阿久津くんが学生の頃、ここによく来ていたと、以前話しましたよね」

「はい」

「ここで、由美ちゃんがアルバイトしていたんです。つまり……」

奈緒は目を見開いた。

「阿久津先生の奥さん!」

「そう」

知らなかった。

由美さんもここで働いてたなんて。

マスターは、阿久津の指定席に目をやった。

「ずいぶん前に、阿久津くんがふらりと来ましてね。思い出のこの場所からもう一度、前に進もうとしていたんです。ですが、そう簡単にはいかないのでしょう。私にも、彼の傷が相当に深いのはすぐに察しがつきました」

奈緒も、阿久津の過去の指定席を静かに見つめる。