阿久津は、奈緒のアパートを離れ、閉店後の金木犀の扉の取っ手を握っていた。

ゆっくり扉を開けると、柔らかい明かりとコーヒーの香りが出迎えてくれた。

「いらっしゃい」

いつもと変わらないマスターの穏やかな笑顔。

その温かさに、胸がじんじんと熱くなり、一筋の涙が頬を伝った。

「どうぞ」

柔らかい笑みを浮かべているマスターに吸い寄せられるように、カウンター席に腰かける。

「いつものでいいですね?」

マスターはそれだけ言うと、静かに手を動かした。

阿久津は両手で顔を覆い、涙を隠した。

彼女は、きっと、俺に振られたと思って、前に進もうとしたんだ。

その方が、彼女は幸せになれる。

過去にがんじがらめになっている俺なんかといるより、ずっと。

確かにあの時は、そう思い、そう望んだんだ。

なのに……。