「大丈夫か?」

 スタファは、馬の腹に頭を押し付けているウィニーに声をかけた。

 ちょうど、軍舎から帰ってきたところのようだ。

 まだ昼だというのに、ぐったりしているように見える。

「だ、大丈夫」

 赤毛を馬から引きはがしながら、彼女は気合を入れるような声を出した。

 その気持ちは、分からないでもない。

 ウィニーは、ついさっき王太子の出迎えから、帰って来たばかりなのだ。

 あの男と対峙して、疲れないはずなどないし、逆に言えば、その程度で済ませられたということか。

 これから彼女は、王太子と公爵邸で生活を始めることとなる。

 スタファもここで寝泊まりすることになるが、防衛戦真っただ中の今、ずっといられるわけではない。

 彼は今回、前線近くまで出るつもりでいた。

 異国と陸戦が出来る地域は、ロアアールだけだ。

 海戦への備えや、海賊に対する処置はフラでもしてはいるが、陸の実践経験をつむのに、この地ほど最適なところはなかった。

 スタファが率いてきたフラの軍にも、彼自身にも、その経験を受け継いで行くべきなのだ。

 もしも。

 現在のこのエージェルブ諸公国では、外国勢力以外でその心配はない──と言いたいところではあるが、問題の種がないわけではない。

 フラの公爵家の血の中に、王に向かって睨みつけている感覚が完全に消えているとは言い難い。

 この形になって、たかだか王位で数えて8世。

 永遠に、この形が続くはずもないのだ。

 更に言えば、次代の拳の王となる王太子には、大きな災厄の種が植わっているように思われた。

 王政であるがゆえに、王の資質に著しく問題がある者が玉座に座った場合、それが揺らぐ可能性がある。

 その時。

 この国を構成する五つの地域と公爵が、指をくわえてそれを見ているはずなどない。

 だからこそ、スタファはここに来たのだ。

 ロアアールと──フラのために。

 そんな目論見を抱えるスタファの視界に、再び王太子が入ってくる。

 ウィニーという赤毛の娘に釣られた愚かな王太子、と言いきってしまえれば、どんなに楽だろうか。

 だが、相手は暗愚ではない。

 だからこそ、ウィニーも警戒する余り、これほど疲れているのだ。

「殿下が、前線に出るとか言い出して……」

 馬から離れた彼女は、唸るようにそう切り出した。

 それは、頭の痛い話だ。

 もし、お飾り援軍の王太子に怪我でもさせようものなら、ロアアールの立場は非常に悪くなってしまう。

 万が一、命を落とそうものならば、ロアアールは自国を相手にする戦いを強いられる可能性もあった。

 もし、他の領地でそのような危険があったならば、スタファは知らんぷりをしたかもしれない。

 しかし、外国との国境線の領地であるここで問題が起きれば、たとえ防衛上手のロアアールであろうとも、重傷は免れない。

「いま、ハフグレン将軍が説得しています」

 その間に、ウィニーは姉に状況を説明しに戻って来た、というところか。

 腰の据わった将軍なので、粘り強く作戦を説明し、説得してはくれるだろう。

 相手が、机をひっくり返して自分の意見を押し通す人間でなければ、その説得も実を結ぶかもしれない。

 机をひっくり返して自分の意見を押し通す人間でなければ──スタファは首を竦めた。

「ひっかき回したいだけだろう」

 それにより、この地の命運を賭けても何とも思わない男だからタチが悪い。

 彼の言葉に、ウィニーは表情を曇らせる。

 一度、空を見上げる動きをした後、彼女はスタファを見るのだ。

「んー……何も大切なものなんて、ないんだろうなあって。自分も、大切じゃないんだと思う」

 考えながら続けられる言葉は、王太子と言う男の輪郭を描いているように見えた。

 ぼんやりしている彼の、一番外側の部分。

 それを、ウィニーが描いて行くのだ。

 民も国も自分さえも、大切に思っていない男。

 ある意味、自殺願望でもあるのではないかと感じるその輪郭に、スタファはこの瞬間、初めて気づいたのである。

 彼の知る中で、一番王太子に触れたことのある人間が彼女だ。

 あれだけの酷い仕打ちの中で、ウィニーがちゃんとあの男に触れていたのだと思い知らされた。

 ひどい人、嫌な人という単純な言葉でくくってしまわずに、指先なりとも本質を掠めていたのだ。

 スタファは、複雑な気分で彼女を見降ろしていた。

 彼女が、踏みこんで欲しくない相手の方に、一歩進み出ているように思えたからだ。

『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』ではないが、ウィニーは自分を守るために、本能的に相手を知ろうとしたのだろう。

 それが、結果的に二人を近づけることになっている。

 胸騒ぎが、スタファの中をよぎった。

「余り、殿下に近づくなよ」

「好きで近づいてないのに……」

 彼の心配の本当の意味など、まったく気付いていないように、ウィニーは大きく肩を上下させ、ため息を洩らしたのだった。