レイシェスは、執務室で頭の痛い書状とにらめっこしていた。

 次から次へと、どうしてこう面倒ごとが数珠つなぎでやってくるのか。

 いや、これはある程度予想はしていたことだ。

 ただ、早過ぎるのと──悪すぎるのと、両方の要素が想像より遥かに上回っていたのである。

 おかげで、スタファの出迎えをウィニーに任せることとなってしまった。

 正式な会見は、公爵邸で行うことになっているので、予定通りならこちらへ向かっている頃だろう。

 そんな苦悩のレイシェスの元へ、スタファの到着の報が届けられる。

 執務室の席を立ち、玄関まで出迎えにいくべく歩き出す。

 何もかも変わった自分を見て、彼は何と言うだろう。

 喪中のため、黒い上着に黒いズボン、さらに胸元には黒いリボンと、黒黒ずくめな上に、ばっさりと切った髪。

 ロアアールの女性として、一番華美な自分を見せていた人に、今度はこんな黒狐のような姿を見せることとなるのだ。

 玄関の扉の内側に立ち、レイシェスはそれが開くのを静かに待った。

 心が、騒ぐ。

 忙殺の日々に、己の心や身を振り返る暇もなく、全力で走ってきた自分がいま、足を止めて待っているのが分かる。

 侍従らによって開けられる扉から──男は現れた。

 濃いオリーブ色の軍服姿の彼は、一瞬レイシェスを見て、ぴたりと足を止めた。

 しかし、表情は変えないまま、すぐに軍靴を鳴らして近づいてくる。

「ラットオージェン公爵代理閣下……再びお目にかかれたこと、光栄に存じます」

 女性に向ける優しげな柔らかさを、いまのスタファは隠していた。

 もし、これが初対面であったならば、レイシェスは彼という人間を誤解していたかもしれない。

 ただ、その瞳だけは。

 前と変わらぬ温度と色で、自分を見つめていた。

 彼女の姿が変わることなど、何の意味もないのだと言わんばかりに。

「タータイト公爵名代閣下、遠路はるばるの増援、心より御礼申し上げます」

 それぞれの家名を背負った、堅苦しい挨拶の物陰から、ウィニーが顔を出す。

 少年のような姿の妹がスタファの側にいると、まるで兄弟のようだった。

 しかし、ウィニーは妹──女性なのだ。

 女性だからこそ、起きた事件もあった。

 レイシェスは、一度瞳を伏せ、そして改めてもう一度、二人の味方を見つめる。

「執務室で、二人に聞いて欲しいことがあります」

 彼らには、面倒事の話をしておかなければならなかった。


 ※


「都からの増援が、ロアアールへの入領確認を申し出ています」

 レイシェスの言葉を、妹はぽかんとした顔で聞いていた。

 スタファは──わずかに眉を険しくさせている。

「早過ぎますね」

 一番分かりやすい不審点を突かれ、彼女はそれに頷く。

 そう、早過ぎるのだ。

 援軍依頼もしていないのに駆けつけてくれたフラとは違って、都では準備こそしていたにせよ、レイシェスの送った書状が届いてから出撃するはずである。

 おそらく、まとめて送った書状は、今頃都に届いているだろう。

 なのに、援軍はすでにロアアールに向かっているというのだ。

 それもそのはず。

「入領を申し出ているのは……王太子殿下率いる近衛軍です」

 瞬間。

 執務室の空気は、見事に温度を下げた。

 ウィニーの表情は固まり、スタファの表情は一瞬にして不機嫌なものへと変わる。

 そんな彼の唇が、悪態でもつきたいかのように、一度開いて閉じる。

 舌打ちひとつこぼさなかったのは、彼の自制のたまものか。

「役に立たない兵を送ってきましたな」

 代わりに、現実的で辛辣な返答が溢れ出す。

「ええ、本当に」

 レイシェスの書状が届くより先に、王太子が動いてしまった。

 しかも、連れてくるのはそう数の多くない近衛軍である。

 王家の直属の軍だが、前線を知らない王家の守護軍だ。

 ほとんど、王太子のおもりのようなものだろう。

「おそらく、私の書状が届いたら、改めて都の正規兵が援軍として送られてくるでしょうが……」

「書状が届いていないのに……来たの?」

 ウィニーは、驚いた顔でレイシェスの言葉に割り込んできた。

「ええ……そう。あなたを側室にあげないという書状も、届く前に出撃しているでしょうね」

 姉妹で、視線をぶつけ合う。

 妹の目にあるのは、困惑と不安。

 それらを何とか押さえているようで、その唇はきゅっと引き結ばれている。

「側室……?」

 スタファの目が、微妙な色合いでウィニーに向いた。

 何というか。

 それは、何とも理解しがたいものを見る瞳の色だった。

「……!」

 妹は、彼の視線に失礼な意図を汲んだのか、唇をとがらし気味に睨み返した。

 そんな光景に、ふっとレイシェスは肩の力が抜けて笑みを浮かべていた。

 こんな厄介な事態だというのに、二人の仲の良さが、こうして彼女をなごませてくれるのだ。

「ともあれ、断ることは出来ないでしょう。王太子殿下自らが、ロアアールの援軍の長となるのですから」

 役に立たない先行軍の、接待をしている暇はレイシェスにはない。

 かと言って、王太子を前線に出すわけにもいかない。

 更に言えば、王太子はスタファ同様に、この公爵家に部屋を用意して泊めなければならないだろう。

 ウィニーも住む、この屋敷へ。

 厄介な要件が揃い踏みであるが、偶然ではない。

 あの男が、わざわざ自らかき回しにきたとしか思えなかった。

「ハフグレン将軍に、預けられるのがいいでしょう」

 スタファは、建設的な意見を出してくれた。

 筆頭将軍は、一番前線には出ない軍を率いている。

 王太子を危険から遠ざけ、ある程度制御するには、かの将軍くらいでなければ難しいだろう。

「そうですね。後から国軍が来た場合は、レーフ将軍に預ける予定ですから、そうするのがバランスがいいでしょう」

 防御上手の将軍の名を挙げると、スタファは苦笑を浮かべた。

「まあ、都の軍の方も……近衛軍よりマシ、程度でしょうがね。レーフ将軍に同情しますよ」

 父が公爵を継いだころの防衛戦時、一番勇猛果敢に戦ったのがフラの軍隊であるならば、一番弱かったのが国軍だったのだ。

 前線を知る者が少なく、撤退戦さえまともに出来ず、防御地域を深く抉られそうになったのだ。

 レーフ将軍は、その当時は国軍と行動を共にしていた防御部隊の士官で、撤退のしんがりを務めた時に片腕を失ったという。

 隻腕の将軍への同情に、レイシェスはまつげだけで答える。

 そして、妹へと向き直った。

「ウィニー……また困難がやってきますが、一緒に乗り越えていきましょう」

 言葉に、妹はぴりっと表情を引き締め、背筋を伸ばす。

「姉さん、私、ちゃんと立ち向かえるから……大丈夫だから!」

 ウィニーは力の溢れている自分を見せるように、両の手を握って見せる。

 都に行って、妹は強くなった。

 レイシェスは、それを実感する。

 可愛かっただけの妹の殻が、いい意味で頑丈になっていく。

 まるで、さなぎになるかのように。

 最後には、どんな女性になるのか──レイシェスは、自分のこと以上に妹の未来の姿が想像できなかった。