「来るのが遅くなって、本当にすまなかったね」

 カルダは、ようやくロアアールの部屋を訪れることが出来た。

 これまで、何度も機会を作ろうとしていたのだが、気づいたら真夜中という生活が続いていたのだ。

 レイシェスを抜いた御前会合は、今後のロアアールの協議で紛糾した。

 2対2で、公爵たちの意見が、真っ二つになったのだ。

 ロア(北)とアール(西)は、16歳の彼女には荷が重い。すぐさま、都から補佐官を派遣すべきだと主張し、ニール(東)とフラ(南)のカルダは、これまで通り不干渉の立場を取ったのだ。

『そちら側は、異国の脅威から遠いからそんな悠長なことを言うのだ!』

 アールの公爵は、唾を飛ばしてそう主張した。

 だが、カルダにとって、不穏なのはアールではなくロアだと思っている。

 姉妹の母は、ロアの公爵家の娘だ。

 つながりが深い分、過干渉される可能性があった。

 それらは、レイシェスの動きを縛る鎖になりかねない。

 結局、会合ではそれぞれの意思をぶつけ合うだけの不毛なこととなった。

 王が、一言結論を出せば、ここまで紛糾することはなかったというのに。

 逆に言えば、まだ王も干渉する段階ではないと思っているのだろう。

 まずは、レイシェスの手腕を拝見──そう言ったところか。

 カルダは、フラの意思を伝え、それに対する了承は得た。

 それらの手配を済ませ、ようやく彼はウィニーの元に向かうことが出来たのだった。

 気落ちしているのはよく分かった。

 ソファに座るウィニーは、前のような明るい笑顔は向けてくれなかったのだ。

「手を……どうしたんだい?」

 不思議なことに、膝に置かれた彼女の右手には包帯が巻かれていた。

 カルダの右手と、同じように。

「あ……ちょっと……」

 ウィニーは、もう片方の手で包帯を隠すような仕草で言い淀む。

 とても、言いにくいことのようだ。

 右手。

 そのキーワードに、カルダは嫌な予測が思い浮かんでしまった。

 王太子だ。

 カルダも王太子自身も、同じ場所に怪我をしている。

 それに、更にウィニ―が加わったとなると──犯人は、容易に想像がついてしまったのだ。

「王太子殿下に会ったのかい?」

「あの、廊下で鉢合わせになって……わ、私が差し出したんです。でも……こんなの何でもないですから」

 包帯ごと握り締めるように、彼女は拳を作る。

 その目は、脅えているようには見えなかった。

 それよりも、悔しさがにじんでいるような気がする。

 何に悔しさを覚えているのか。

 正直、この時のカルダは、見誤っていた。

 いや。

 見くびっていた、と言った方がいいか。

 王太子に傷つけられた理不尽さを、彼女が悔しがっているのだと思ってしまったのだ。

 だから、次の言葉はカルダにとっては意外なものだった。

「私……姉さんの……ロアアールの助けになりたいんです」

 必死な顔が、ぱっとこちらに向けられる。

 その目には──王太子の『お』の字もなかった。

 手の怪我なんて、本当に彼女にとっては何でもないことだったのだと、この瞬間に思い知らされることとなる。

 ウィニーが王宮に戻ったのも、こうして右手を王太子に差し出したのも。

 全て、姉や故郷のためなのだと信じている目。

 赤い髪の少女は、明るくてフラの娘のように見える。

 だが、彼女はロアアールの娘。

 寒く厳しい雪の中で、この国を守護する血を引く者だ。

 それを、ようやくここで自覚したのである。

 彼女は、自分をロアアールの厄介者だと思っている節があった。

 おそらく、ウィニーの母の態度がそう思わせていたのだろう。

 救いを外に向けた手を、カルダは取ろうとした。

 それが、彼女のためだと思ったのだ。

「私じゃ、大した助けにはならないかもしれないけど……は、早くロアアールに戻りたいです」

 こらえきれないように、ウィニーはソファの上で小刻みに揺れる。

 その仕草は、走りだしたくてたまらない子犬に見えた。

 そう、子犬。

 これから、どんな犬に成長するのか、まるで分からないその姿。

 その気配に気づいて、カルダは彼女をじっと見つめた。

 正妃にしようと、心に決めたのは冗談ではない。

 彼女が望み、フラにその骨を埋める気であるのならば、男として、公爵としてそうするつもりだった。

 だから、カルダは慎重に聞くことにしたのだ。

「おそらく……ウィニーの母上は、いい顔をしないだろう」

 次の瞬間の彼女の表情は、痛々しいものだった。

 決意の表情が強張り、少しの間だけ時間を止めてしまったのである。

 どれほど、彼女の母が娘に傷を与えていたか。

 それが、伺うまでもなく知れる。

 だが、ウィニーはキッと目に力を戻した。

 前よりも、もっともっと強い力の瞳で、彼を見つめ返したのだ。

「でも……怖くないです。王太子殿下より! 怖くないです!」

 この時のカルダは、あの歪んだ王太子に対して複雑な気持ちを抱いていた。

 感謝すべきか、恨み言を言うべきか。

 それが、問題だったのだ。

 彼女にとって、一番怖いものの最上位は、王宮に来て変わってしまった。

 最悪を見てしまったウィニーには、もはや母はそれ未満の存在になったのである。

「ウィニー……私の正妃の話は、一度白紙に戻そう。思う存分、ロアアールに尽くすといい」

 結局、カルダは心の中で、王太子に恨み言を言うことにした。

 彼女を変えたのは、自分ではなかったのだ。

 その事実だけ取っても、男として面白いものではなかった。

 言葉に、ウィニーははっとした。

 そして、一瞬赤くなったかと思うと、その直後、急転直下で真っ青になっていったのである。

「おじ様……公爵のおじさま……わ、私」

 ようやく、自分が向かおうとしている方向が、フラの正妃と同じところにはないのだと気づいた顔だった。

 違うのだと。

 必死な目に涙をためて、ウィニーはその身を二人の間のテーブルの上まで乗り出してくる。

 彼女が、よその地に嫁ごうと思った気持ちが嘘ではなかったことくらい、カルダにだって分かっていた。

 ただ、いまの彼女に、それよりも重要なことが芽生えてしまったのだ。

 初めて故郷を離れたことで、ようやく外から客観的に見る事が出来たのだろう。

「ウィニー、故郷のために戦いたいと思う気持ちは、とても素晴らしいものだ。私のかわいいはとこ殿……私は貴女を誇らしく思うよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……おじ様。せっかくおじ様が……」

 ひっくとしゃくりあげる彼女の鼻の頭は、顔色とは正反対に真っ赤になっていく。

「私の正妃となる未来が、なくなったわけではない。ウィニーなら、いつでも歓迎だよ」

 手の中に入れようと思っていた小鳥が、飛び立っていく感覚を、カルダは少し寂しいものとして受け入れたのだった。