彼は──王太子である。

 現在の拳の王の、二番目の男子。

 一番目の男子は、この世にはいない。

 噂通りであれば、彼の母が他の女性から生まれたその子を、この世から消したということになる。

 それが事実かどうかは、どうでもよかった。

 個人の名はあるが、いずれ消える。

 父が死ねば、彼はマイア・ロシスト・エージェルブ(大いなる拳の王)と呼ばれるようになるのだから。

 だから、名前など何の意味もない。

 彼が物心ついた時にはもう、自分が王太子になるべき立場だったため、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 それでも、まだ今よりは子どもらしい子だった。

「──様! 悪いことをしてはなりません!」

 幼少を後宮で過ごしていた彼を、名で呼ぶ数少ない侍女がいた。

 若いがころころと太っていて、美しくはないが明るい女性である。

 母は、嗜みと企みに忙しい女性だったため、躾と愛情を彼女に受けたといっても過言ではない。

 嗜みにも企みにも興味のない彼女は、後宮の中で許される限り、彼をまっすぐに育てようとしてくれた。

 彼女の結婚の噂が立った時、子どもながらに焦ったほどだ。

『大丈夫ですよ、私は、貴方様が立派に成長なさるまで、お側におりますから』

 その言葉を信じた。

 彼女だけは、疑う余地のない相手だと思っていた。

 ある夕刻。

 部屋に来るはずの彼女が来ず、彼は心配になって探しに出た。

 後宮内にある図書室辺りにいるのではないかと思い、そこへ近づいた時。

『おやめ……下さい……』

 苦しげな、彼女の声を聞いた。

 ひどい目にあっているのではないかと、驚いて彼は図書室へと飛び込んだのだ。

 抑えつけられた手。

 乱れたドレス。

 そんな彼女にのしかかっていたのは。

『後学のために見て行くか?』

 冷たい目で自分を見ながらそう言った──父だった。

 ここは、後宮。

 王のための場所だ。

 後宮に出入り出来る男は、王と王の子のみ。

 そして。

 後宮の女性は、全て王が好きに出来るのだ。

 残酷な力による屈服の光景を、彼は茫然としながら見ていた。

 自分に明るく優しく語りかけていたその口が、悲鳴をあげながらも決して自分に助けを乞わない様子を見ていた。

 その日から。

 王太子の中にある何かが、大きくねじれたのだ。

 いまにして思えば。

 彼は、その侍女のことが好きだった。

 都に降る初雪のように、淡い淡い初めての思い。

 周囲の誰とも似つかない、爛漫さを愛していたのだ。

 だが、それが壊される瞬間を見た。

 力で、屈させられる瞬間を見た。

 彼女は──王太子の侍女を辞めた。

 後宮から、下りたわけではない。

 ただ、働く場所が変わっただけ。

 王太子は、その女を二度と見たいとは思えなかった。

 見る度に、心の中のねじれが大きくなっていくからだ。

 しかし、彼女は特徴的だった。

 ころころと太った身体のせいだけではなく、彼女は後宮に余りいない──赤毛だったのである。

 だから、視界の端にほんの少しでもあの色が閃く度に、彼の心はねじくれていった。

 後宮を出る10歳になった時、彼はせいせいしたのだ。

 もう二度と、彼女を見ることはないだろうと。

 何故ならば、彼女は『王の後宮』の侍女だったのだから。

 これから、王太子のために作られる『王太子の後宮』とは、まったく違う場所。

 なのに。

 15歳になって、初めて作られた彼の後宮に──彼女はいた。

『南長』などという肩書を背負って。

 王太子のねじれた心は、その瞬間、更にねじきれんばかりにひねり上げられたのだ。

 まるで、父の声が聞こえた気がした。

『好きだったんだろう? おさがりで良ければくれてやる』

 彼は誰も寄せ付けない己の部屋で、臓腑を抉られるかのように吠え、のたうった。

 父に対する憎悪が炎の柱のごとく吹き上がり、彼は己の室内で何もかもを破壊したのだ。

 それから。

 彼は、いまの王太子と同じ物となったのだ。

 治世になど、何の興味もなくなった。

 こんな世界など、荒れて乱れて殺し合えばいい。

 反乱を増長させ、そうなるべく敵を積み重ねて行く。

 女に対する考えは、乱れただれて、力でねじ伏せられる者は全てねじ伏せた。

 侍女だろうが掃除女だろうが、目についた女は片端から弄んで捨てる。

 ただし、その中に赤毛はいなかった。

 南長以外の赤毛は、彼の後宮にはいなかったのだ。

 だが、彼女にだけは決して触れもしない。

 憎んでいる男のおさがりになど、絶対に手を出さない。

 それが、彼の歪んだ自尊心だった。

 そんな男が。

 皮肉にも、赤毛の女と出会ってしまった。


 ※


 まだ幼さが残り、古い型のドレスを着ている彼女は── 一瞬、この世のものには見えなかった。

 少なくとも、そこだけ古い時代であるかのように思えたのだ。

 夕日に燃え上がる髪はなお赤く、慎ましやかな形のドレスも染め上げていた。

「夕日の精か?」

 王太子は、ロマンティストではない。

 もはや彼は、自分は何の夢も見る気もないと思っていた。

 蔑むべき感情だとさえも。

 そんな男が、その古めかしい光景を、ほんの一瞬だけとは言え、夢幻(ゆめまぼろし)のように思ったのだ。

 だが。

 彼女は、夢幻ではなかった。

 人間だったのだ。

 しかも。

「これは、お祖母さまが遺してくれた、大事な大事なドレスよ! このドレスが時代遅れというのなら、私は時代になんか乗らなくてもいいわ!」

 王太子である彼に、噛みついてくる女だった。

 彼は、思ったのだ。

 この誰の手垢にもまみれていない赤毛の女を、抱いて滅茶苦茶にすれば、自分のねじれた心の根元にある、あの暗い記憶を踏みつけられるようになるのではないかと。

 赤毛の女など、この程度のものだったのだ、と。

 それは、容易なことだと思っていた。

 だが、彼に『今』残されているものと言えば。

 その赤毛の女が脱ぎ捨てていった一揃いの靴と、フラの公爵の忌々しい指輪の石と──右手の噛み痕だけだった。