何から守るのか、その時の十澄には分からなかったが、のちに睡蓮邸を訪れた客たちの習性を知って納得することになる。妖怪は人間を主食にする者も人間に過多な好奇を抱く者も、接触するだけで人間の害になる妖怪もいるのだ。紅姫は睡蓮邸の客から十澄の身を守ると言ったのである。
 睡蓮邸という居場所を見つけた十澄は、辛くなる度に睡蓮邸を訪れた。妖怪に喰われかけても、怪我を負っても、訪れるのを止めなかった。妖怪という脅威はあっても、十澄が飢えていた愛情や親愛を睡蓮邸は惜しみなく与えてくれたからだ。
 いつしか、過ぎ去った歳月の中で不仲な両親との折り合いの付け方も学んだ。妬みの対象であった弟と親交を持った。好奇の視線も気にしなくなり、近所にはそれなりに親しい人もできた。
 人間としての十澄の成長を手助けしたのは、間違いなく睡蓮邸に住む者たちだった。
 紅姫と出会って十六年。十澄の傍にはいつも紅姫がいて、その未熟な背を押して肩を支えていてくれたのだ。
 界渡りという睡蓮邸の引っ越しによる紅姫との別れを直前にして、成長した十澄は苦笑いを禁じ得ない。
 振り返って見れば、十澄の短い人生の記憶のほとんどを睡蓮邸での日々が占めている。中には弟との触れ合いや両親との衝突、近所の子どもたちとの親交の記憶もあるが、今の十澄はそれらを些細な記憶と言える。
 着々と進行していく見合い話に適当に相槌を打つ自分が、不意に十澄はおかしくなってしまった。

(ぼくは、何をしているんだか)

 紅姫は間違いなく十澄にとって最も重要な人物だ。その紅姫との最後の別れを済まさずに、十澄は最もどうでもいいと思っている父の用事を優先しているのである。これが笑わずにいられるだろうか。
 自虐的な笑みが表情に出たのか、目の前で見合い相手の美津子がいぶかしげに顔を歪める。

「景一郎様、どうかなさいましたか?」

 美津子に尋ねられて、十澄はにっこりと笑顔を作る。
 十澄に視線を集中させていた他の三人は、驚いた顔をする。いままで鉄の無表情を崩さなかった十澄が、明確な表情を見せたからだ。

「申し訳ありませんが、急用を思い出しましたので、ここで私は失礼させていただきます。皆様はここでゆっくりと歓談をお続けください。私が抜けても大した問題はないでしょうから」

 破綻だらけの理論を一気にまくし立てて、十澄はすっと立ち上がる。心はすでに睡蓮邸の紅姫の方へ向けられていた。
 あまりの出来事に呆気に取られた三人は、部屋を出て行こうとする十澄を呆然と見守る。一番初めに我に返ったのは十澄の父だった。

「景一郎! 何を馬鹿なことを……!」
「失礼いたします。父上」

 慌てて立ち上がった父を一瞥して、十澄は障子戸から廊下へ出る。正規の出入り口に回るのもまどろっこしく、縁側から外に飛び降りて、据え置かれていた下駄を拝借すると走り出す。
 背後から父の怒声が届く。

「景一郎、貴様! 早く戻れっ、我が十澄家の顔に泥を塗るつもりか!!」
「泥を塗るも何も……貴方にとって私はすでに家の恥でしょうに!!」

 一度だけ背後を振り返って叫ぶと追いかけようとする父の足が一瞬止まる。すぐに父に背を向けて走り出すが、父の歪んだ顔がつぶさに想像できた。
 見合いのために縫われた一張羅は着慣れず、十澄の動きを阻害する。それが何とももどかしく、貴重な時間を無駄にしていた自分にも歯がゆくなる。
 もう睡蓮邸はとっくに界渡りを終えたのではないか、という最悪の予想が頭をよぎったが、それはすぐに否定されることなった。

「兄上!」

 ここにいるはずのない恭二郎の声が聞こえて、十澄は足を止める。声の方向を振り返るとふわっとした柔らかい風が吹いて来て、目を見開く。

「っ……十純!? 風切姫と鬼丸まで……」

 そこに珊瑚色の打掛姿で赤い唐傘を差した紅姫が、周囲にふわふわと舞う風切姫と傍に鬼丸を付き従えて、何故か恭二郎と一緒に立っていた。
 彼らが睡蓮邸の外にいることも、恭二郎と一緒にいることも意外で、十澄は唖然と立ち尽くす。

「兄上、こちらが大事だと言っていた御友人でしょう? 家に来られたので、案内して来ましたよ」

 兄に近づいてきた弟はにっこりと笑顔で紅姫を手の平で示す。にこにこした笑顔からは恭二郎の考えは読み取れない。
 十澄は戸惑って曖昧に頷く。

「……十純?」
「何じゃ、子どもの頃のような顔をしおって」

 紅姫に視線を向けるとそう笑われる。自分がどんな顔をしているのか、十澄には分からないが、情けない顔だろう。先ほど睡蓮邸に駆けつけようとした威勢を失って、十澄は紅姫たちに近づく。
 彼らは普段通りに迎えてくれた。

「あらまぁ、ろくろ首にでも化かされたみたい顔ね」
「急にお訪ねして申し訳ありません、十澄様。連絡が取れなかったものですから、恐縮ながら弟君のお手を煩わせていただきました」

 くすくす笑う風切姫が微風を吹かせ、鬼丸が深々と頭を下げて説明する。
 反射的にかまわないよ、と返して十澄は紅姫を見つめる。

「……界渡りは?」
「これからじゃ」
「どうして、ここに?」
「まぁ、何と言うか……」

 一度言葉を止めて、紅姫は桃色の唇を艶然と持ち上げる。
 十澄はまだ混乱を引きずって、戸惑いの混じった視線を向ける。

「ここはひとつ、年性もなく可愛らしい我が侭を言ってみようと思ってのう」
「我が侭?」
「聞いてはくれぬか?」
「それは……ぼくにできることなら、何でも」

 外見は幼い少女であっても、その実紅姫は何千という年齢を重ねてきた女である。子どもっぽい顔を覗かせることはあっても、十澄に対して本当に子どもじみた我が侭や無茶を要求したことはなかった。
 意外な要求に十澄は思わず動揺する。
 紅姫はふっと笑って、振袖から覗く小さな手を十澄に差し出す。

「わらわにお主をくれぬか?」
「……何だって?」
「考えたのじゃが、やはりお主と離れるのは惜しい。わらわは景が欲しいのじゃ。
――だから、わらわと共に来い」

 臆面もなく告げられた口説き文句に、十澄は頬が赤くなるのを感じた。わたわたと動揺して、途方に暮れた顔になる。
 紅姫はそれに面白そうに微笑して見ている。

「ほんにお主は仕様のない奴じゃ。女にここまで言わせておいて、一言もなしとはいかがなものかと思うぞ?」
「うぅ、ごめん」

 からかい混じりの指摘は十澄の胸をぐさりと突く。真実だから余計に耳に痛い。
 十澄は落ち着きなく漂う視線を地面に落として深呼吸をする。数秒の間、目を閉じて心に平静を取り戻そうとする。
 再び目を開いた時、十澄の目はまっすぐ紅姫を見据えていた。

「ぼくも、十純の隣にいたい。君がいなくなったら、ぼくはきっと壊れてしまう」
 それは誇張ではなく、事実として十澄の心の中にあった。界渡りのことを知ってから十澄の精神はバランスを崩した。感情は理由もなく上下して、元より少なかった物事への意欲はさらに低下した。普段なら気にならない周囲の中傷や嘲笑に、ひどく心を乱されて傷ついた。
 知らないうちに十澄は手放せば壊れてしまいそうなほど、紅姫に依存していたのだ。
 それに気付いた今、十澄は躊躇いもなく差し出された手を取る。

「ぼくも一緒に連れて行ってよ、十純」
「よう言ったな、景」

 ぎゅっと繋がれた手に力が篭もる。
 紅姫の力強い笑みを見つめて、十澄は嬉しそうに微笑む。その目元は早くも涙で潤み始めていた。

「上手くまとまって良かったわ! さぁ、紅姫様、そろそろ睡蓮邸に戻りませんと。
有り得ないとは思いますけど、界渡りが失敗して妙なことになったら大変ですもの!」

 事の成り行きを見守っていた風切姫は甲高い声で周囲を舞って、主を催促する。鬼丸も口には出さないが、同じ懸念を抱いているようだ。
 十澄は紅姫と目を合わせて、すっと視線を弟へ向ける。

「……恭二郎」
「はい、兄上」

 弟に対して十澄は何と言っていいのか分からない。恭二郎の目からも紅姫たちの姿は異様に見えるだろう。風切姫と鬼丸はどう見ても妖怪だ。それにも関わらず、恭二郎は笑顔でこちらを見守っているのだ。
 言葉に迷う不器用な兄に、弟の方から口を開く。

「行かれるのですね、兄上」
「ああ」
「では、あとのことは任せてください。兄上と義姉上の幸せを祈っています」
「あ、義姉上!?」
「え? 違うのですか? そちらの方が兄上の御友人で、想い人では?」

 きょとんと首を傾げる恭二郎に、十澄は慌てて紅姫を見る。紅姫を大事に思っていることは否定しないが、それが恋愛感情かと言うと分からないのだ。
 唸る十澄に紅姫は意味深に微笑しただけだった。
 その真偽は保留にしておいて、十澄は最後まで世話をかけっぱなしになる弟に目を向ける。

「すまない」

 嫡男である十澄が消えれば、次男の恭二郎が家を背負って行くことになる。どれほど疎まれても跡取り息子である十澄は、家を背負うことの重みを知っている。それを全て弟に丸投げして十澄は去ろうとしているのだ。
 恭二郎は困ったような顔をする。

「兄上。どうせなら、お礼が欲しいのですが」
「それもそうか。――ありがとう、恭二郎」
「ご達者で、兄上」

 遠い昔から確執を持つ兄弟は、互いに曇りのない笑顔を交わす。
 その時、しんみりとした空気を打ち壊す怒声が遠くから届く。低く太い声は十澄の名を呼んでいる父のものだ。
 十澄と恭二郎は思わず苦笑を洩らす。

「それじゃあ、恭二郎。……結婚式くらいには顔を出すよ」
「さようなら、兄上」

 遠目に追いかけて来た父の姿を認め、弟と最後の挨拶を交わす。
 ふんわりと柔らかくも強い風が十澄たちを包み込み、小さな竜巻を作り出す。風切姫が風を操って睡蓮邸へ運ぼうとしているのだ。
 片手に紅姫の温もりを握りしめ、ふわっと身体が竜巻に浮き上がるのを感じながら、その姿が見えなくなるまで十澄は置いて行く家族を見つめ続けた。

「……景」
「いいんだよ」

 心配そうな顔をする紅姫にやんわりと告げて、十澄は目を閉じる。
 色素の薄さを原因に十澄を苛み苦しめた父と両親に愛されながら必死に兄を立ててくれた弟、二年前に儚くなるまで笑顔ひとつ見せてくれなかった母、見て見ぬふりで孤立する十澄を敬遠した使用人たち。
 良い記憶などほとんど持てなかった家族と故郷。それを名残惜しむ気持ちが残っているとは、十澄自身が何より驚いていた。


――それでも。


「帰ろう、睡蓮邸へ」

 十澄は穏やかに睡蓮邸の住人たちに微笑む。
 家族を捨てても、故郷を失っても、十澄のいるべき場所は唯一つ、睡蓮邸なのだ。

「うむ、そう言えば界渡りの後はアゲハ蝶が舞うのじゃ。皆で見るのも楽しかろう」
「では帰り次第、すぐに用意をいたします」
「あっ、鬼丸! 力仕事はともかく、台所には近寄っちゃ駄目よっ、もう皿は割らせないんだから!」
「わ、私はいつも転んでるわけでは……」
「無駄な言い訳をするんじゃないの!」

 ぷりぷり怒り出す風切姫としょぼんと肩を落とす鬼丸。その会話を見て、十澄と紅姫は顔を合わせると同時に吹き出す。
 鬼丸の悲壮な抗議を受け流して、十澄は目を細めてつぶやいた。

「やっぱり、ぼくはここがいい」

 妖怪たちに襲われても、脅されても、毒されても。愉快で温かな睡蓮邸の住人たちが十澄は大好きなのだ。
 紅姫に寄り添って十澄は幸せそうに笑った。