「送っていくよ。昨日そう言っただろう。この時間はタクシーもつかまらない」


「我が家のご近所のみなさま、朝の散歩を楽しむ方が多いの。

だから早い時間がいいと思って。

誰かの目にとまって ”お宅のお嬢さんをお見かけしました。

朝方男の人に送られて帰ってきましたよ” なんてことが、 

両親の耳に入らないとも限らないでしょう」



早く帰るわけを話しながら身支度を整えると、部屋の隅にある鏡の前に立って

コンパクトを取り出した。

軽くパウダーをおき、ルージュを唇にのせていく。

髪を両手でかき上げて短い襟足を整えた。



「朝方、家まで送り届ける男になるのも光栄なことだけどね」


「今日もお忙しいんでしょう? もう少し休んだ方がいいわ。

それにこの霧ですもの、運転も危ないと思うの」



霧だって? と言いながらベッドから抜け出すと、窓辺の遮光カーテンを

勢い良く開けた。



「これはすごい……街が霧の中に沈んでいるようだ」


「幻想的な風景ね」



彼の横に立つと、宗一郎さんは私を後ろから抱きかかえ手を重ねてきた。 

昨夜の寂しさはもうどこにもなく、私は充分に満たされていた。




「昨日は……楽しかったわ」


「やっと、いつもの君らしくなった」


「宗一郎さんのおかげよ。ありがとうございました」


「礼を言われると、またこうして誘いたくなる」


「ふっ、またって……」



ジャケットの襟元から忍び込んだ手が胸をもてあそび、そうしながら真顔の

冗談を口にする。

そのギャップがおかしくて噴出した。

その顔を宗一郎さんの手が後ろへと向けた。



「ダメよ、口紅がとれちゃう」


「誰に見せるつもり? タクシーの運転手?」


「誰に会うかわからないでしょう。それに……」



返事が終わらないうちに彼の腕に絡めとられ、私は次の言葉を伝えることが

できなくなった。

まるでぬりたてのルージュをふき取るように、唇を覆ってはついばみ、

わざと私を困らせるようなキスだった。

ようやく離れた顔を見て二人とも笑いが漏れ、互いの指で相手の唇についた

ルージュをふき取った。



「一人が嫌な時だってある。そんなときは付き合うよ」


「今度は愚痴を聞いてもらうかもしれないわよ」


「いいとも、愚痴でもなんでも聞くよ」


「えぇ、そのときはお願いします……じゃぁ、帰るわ」


「やっぱり送っていくよ。すぐに着替えるから待ってて」



私の返事も待たず歩き出した彼は、羽織っていたバスローブを脱ぎ捨てた。





「ここにいる間は何もかも忘れよう。そういう時間があってもいいはずだ」 



以前、彼が言ってくれた言葉が蘇る。

背負った物を下ろす時も必要だと、これまで誰も言ってくれなかったことを、

宗一郎さんは私に伝えてくれた。

あの夜、私たちは互いの領域に踏み込んだ。 

肌を委ねることで、口にはできない思いを伝えあった。

それは、肌の重なりで魂が寄り添ったとでも言うような不思議な感覚だった。