主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-②

目の前の女は見た目にはどこか傷ついているような箇所はない。

だが大量に血の匂いがするし、笑みを浮かべてはいるがどこか強張った表情に見える女を見ているうちに、目すら霞んできた。


「お、まえは……」


「椿姫と申します。…私をお食べになるでしょう…?」


「…俺は……人は…食わないと…約束……」


「どなたと約束を?我慢しなくていいのです。私はきっと…お口に合うはず」


…何を言っているのか理解できない。

だが濃い血の匂いがするのは確かだし、甘くて熟れた香りのする椿姫から目を離せないでいる自身に気付いていた主さまは、後ずさりをして椿姫から離れようとした。


そんな主さまにまた笑みを向けた椿姫は緋色の袴を脱ぎ、白衣と襦袢をも脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿になると、主さまの前に立って背伸びをして主さまの口元に右肘をあてた。

口を閉じようとしたのに自然と開いてしまい、牙が疼いて仕方ないのをなんとか堪えつつ、眼光鋭く椿姫を睨みつけたが…何もかもから血の匂いがする。


「や、めろ…!近寄るな!」


「良い香りでしょう?食べると楽になります。きっと…癖になるわ」


「お前の目的は……なんだ…!?」


「…今は何も考えないで。ほら…」


半開きの主さまの口の中に指が入ってきて、反射的に噛んでしまった。

芳しく甘い味は、主さまの妖としての本能を呼び覚まし、意志とは裏腹に椿姫の腕に牙を立てる。

椿姫は痛がりもせず声も上げず、ただただ齧りつく主さまを見つめていた。


肉が裂けて骨が砕けようとも血は出ず、驚くことに組織はあっという間に再生して元通りになった。


久々に人を食ったこと、そして息吹との約束を破ってしまったこと――全てが主さまを苦しめるが、嚥下を止めることができない。

肉を噛めば血の味が広がり、瞬きをしたその瞬間に肉は再生されて綺麗になる――


してはいけないことだとわかっているのに、椿姫の身体…いや、肉は主さまを魅了して思考を奪ってゆく。


「酒呑童子様はしばらくここには戻って来ないはず。だから…しばらくはここに居て。いつでも私を食べていいのよ…」


横たわった椿姫に食らいつく主さま。

息吹に知られたら…息吹が知ってしまったら?


そんなことを考える余裕すらなく、ただ貪り続ける。