人妻と青年




鼻の奥がつんとして、涙の膜が目を覆った。視界がぼやけて、見えなくなる。高揚感が胸を支配した。

「で、も」

「ぼくはあなたをしあわせにしたいです」

「はい」静かに紡がれる言葉が、幸子のこころを優しく揺さぶる。

「ぼくにあなたをください」

一拍置いて、はい、と応える。

「幸子さん、ぼくと」



徐々に視界が晴れていく。若々しかった青年はもうどこにもおらず、扉の外に立っていたのは中年太りの夫一人だ。仕事帰りの草臥れたスーツを着て、手元に行列のできる有名菓子店の紙袋を持ち、お洒落な水玉模様の靴下を履いた、そんな夫が。

「ケーキ、買ってきたから」紙袋を掲げ、人懐っこい犬のような笑みをみせる。笑ってできた二重顎がたぷたぷと揺れた。

そうして、何も言わずに幸子へと背中を向ける。彼女は名残惜しく、手元のノートを眺める。彼と付き合ってから、ことあるごとに付けていた日記。青年の彼と、今の夫。どちらが良いかだなんて、分かりきった答えだろう。

幸子は、不器用な背中を見つめて愛おしそうに微笑んだ。おかえりなさい、と声をかければ、晩ご飯が食べたい、と素っ気なく彼は言った。