俺の背中に感じた風はあの日と同じだ。二年前、美春が席を立ち、俺の後ろを歩いたときに一瞬ふわっと感じた風。

 たった一秒ほど感じた風に、もう不倫を終わらせるんだという強い意志を感じたあの風。

 今、その風を感じた男の方は見ない。

「追いかけないのかな」森山が呟いた。

 追いかけてどうする。女は別れを言ったというのに。

「まだ間に合うかもしれない」

「森山が付き合っていた男は追いかけてきたのか」

 俺は二年前の日を勝手に想像する。あの日、もし追いかけていたら何か変わっていたのだろうか。

 美春を追いかけ、腕を掴み俺の傍にいてくれと抱きしめる。あなたは傍にい
てくれるのと言う美春に、いるよと答える。

 家庭のある男がこんな言葉を吐いたって何の保証もない言葉だ。

「そういう時だけ普通の男になって私を惑わすの。それ以外は妻子持ちの男になるくせに」

「……」

「別れた日に部屋のチャイムが鳴ってドアを開けたら、秋野くんがいた。秋野くんとはそれから。ただ、その日の夜中にチャイムが鳴ったような気がしたけどよく憶えてない」

 俺も一度、この居酒屋から美春に電話をした。俺もそういう時だけ普通の男になった。電話の向こうから美春の声が聞こえることはなかった。