結局母は、俺たちが部屋に引っ込むまでひとことも発しなかった。

 機嫌の悪いときにはよくあることだから、いちいち気にすることもない。と思うものの、俺はすっきりしない気分のまま、ケータイを片手にただぼんやりしていた。

 舞に電話をしようと思うのだけど、あんな素敵なできごとがあったのに、今の俺はテンションが低い。明るい将来の話をしたくても、声が沈んでしまいそうだ。

 舞もケータイを持っているとはいえ、あまり遅い時間に電話するのは迷惑だろう。そろそろタイムリミットだ、と思い切ってケータイの発信履歴を表示したところで、俺の部屋のドアがノックされた。

「暖人。起きてる? 入ってもいい?」

 ドアの向こうから母親のよそ行きの声がした。俺はケータイを布団の中に突っ込んで、ドアを開ける。

「ん?」

「さっきはごめんなさい」

 部屋のドアを閉めると、母親はそう言って軽く頭を下げた。俺はしおらしい様子の母親に不気味さを感じるが、とりあえず「うん」とその謝罪を素直に受け止めておく。

 顔を上げた母は、比較的真面目な表情でためらいがちに言った。

「それで、暖人には付き合っている……彼女っているのかしら?」

「……っぐ!」

 食べ物を喉に詰まらせたような声が出て、俺自身も驚く。

「いきなり、なんだよ?」

「そりゃ私も母親ですから、そういうことは一応気になるでしょう? だって相手は女の子なわけだし。……って、まさか男の子!?」

「そんなわけないだろっ!」

 いや、他のヤツのことは知らないが、少なくとも俺にはそっちの趣味はない。

「そうよね。それで、彼女とはどんな感じなのかしら?」

 母のまなざしが真剣で怖い。俺はひやひやしながらも、顔色を変えない努力をする。

「どんなって、付き合い始めたばかりだし、母さんに心配をかけるようなことは、なにもないね」

「そう。……その言葉を信じることにするわ」

「うん」

 いや、俺は別にウソをついているわけじゃない。

 本当にまだキスまでしかしていないのだし、それだってつい数時間前に初めてしたところなのだ。まぁ、あれは確かに、初めてにしてはちょっと……いやかなりディープだったかもしれないが。

 俺が舞とのファーストキスに関する回想を楽しんでいる間、母は難しい顔で俺の部屋を眺め回していたが、やがて飽きたのか、こっちに視線を戻すとまた口を開いた。

「大学受験、する気はあるんでしょう?」

「まぁね。でも進路は迷ってる」

「そう。ずっと不思議だったんだけど、暖人って小さいころから将来の夢を語ったことがないんじゃない?」

「ないね。ついでに言えば、将来の夢自体がない」

「それって、もしかして『歯医者にならなきゃ』というプレッシャーみたいなものを感じているから?」

 母は罪悪感でもあるのか、俺を上目遣いで見ている。そういう顔をされるとちょっとからかいたくなるのは、俺の性格が悪いからなんだろうか。

「どうかな」

「だけど私たち、暖人にも寛人にも、もちろん笑佳にも、『歯医者になれ』とか『ウチを継げ』なんて一度も言ったことないわよ」

「そうだね。だけど言わなくても、そう思ってるだろうなって、こっちの立場だったら絶対感じるよ、普通は」

 この「普通」をとりわけ強調してやった。

 すると母は悲しそうな顔でうつむき、「そっか」とつぶやいた。

「でも実は『他の誰かが継ぐだろう』って思ったりしてない?」

「寛人と笑佳はそうだろうね」

 俺がため息混じりにそう言ったところで、母はパッと顔を上げ、急に満面に笑みを浮かべる。



「じゃあ暖人が継いでくれるのね!」

「ちょ、ちょっと待て!」



 いやいやいや、母さん、そうじゃないだろ!

 からかってやるつもりが、逆にからかわれているとしか思えないこの展開。

 長男の悲哀が胸に迫ってくるのを感じ、俺はとりあえず机の上のペットボトルを手に取った。

「母さんは俺が歯医者になることを期待しているわけ?」

「それは、まぁ……半々かな。ウチを継いでくれたら嬉しいけど、暖人が歯科医になりたくないなら継がなくていいのよ。本当にやりたいことを見つけて、それが将来の仕事につながれば一番いいと私は思ってる」

 返事に困って、ペットボトルに口をつけた。

 将来の夢がない、というのはウソじゃなかった。俺は物心ついたころからずっと、歯医者にならなければならない、と思い込んでいたのだ。それが長男の運命だと勝手に信じていた。

 確かに「継げ」と言われたことはなかったが、「継がなくてもいい」と言われたのも今日が初めてだから、戸惑うのは仕方がないだろう?

「ママ友に笑われたって? 俺のせいでごめん」

「暖人こそ、寛人に言われっぱなしね。それも私が悪いのよね。ごめんなさい。もっと早くに話をすればよかった」

 母は少し困ったような顔をして笑った。ガキよりもガキっぽい人のオトナな表情に、俺もほんの少し困る。なんだか母親らしいことを言うし、さ。