あの夏よりも、遠いところへ


「一緒にピアノ弾いたりしてるんでしょ?」

「うん、してる」


陽斗の横顔が嬉しそうにほころんだのを、わたしは見逃さなかった。

嫌だな。見なければよかった。


「北野さんのピアノって、間近で聴くとすっげーの」


そんなの、わたしが一番よく知っている。わざわざ教えてくれなくたって、知ってるよ。

なんだよ。両想いじゃん。わたしの知らないところで、もう両想いなんじゃん。

……違うな。たぶん、わたしが陽斗と出会っていなかったころから、ふたりは両想いだったんだ。


「北野さんのせいで、おれもブラームス好きになりそう」


困ったな、なんて言うけど、陽斗は全然困っていない。

わたしはブラームスを大嫌いになりそうだよ。


「……わたしはショパンが好き」

「知ってる」

「ずっとショパンが好きだもん」


馬鹿みたい。だからなんだっていうの?

たかが作曲家の好み。されど、好みなんだよ。

陽斗はブラームスじゃなくて、雪ちゃんのことが好きなだけじゃん。雪ちゃんがモーツァルトを好きだったら、陽斗はきっと、モーツァルトが好きだった。

初めて教えたわたしの『好き』を、踏みにじられた気がした。

悲しくて泣きそうになったのはこれがはじめてだと思う。