あの夏よりも、遠いところへ


静かに鍵盤から指を離し、ふうと息をつく。

マジで緊張したよ。それにしても、すげえ良い音のピアノだな。


「……あの」


落とされた沈黙が嫌で、目だけで彼女を見上げた。びっくりした。声、出ねえよ。


「ありがとう、蓮くん」


だって彼女は、静かに涙を流していたんだ。


「ありがとう。ほんまに、ほんまに……」

「えっ……と」

「ごめんね。だってあの子が、沙耶が生き返ったみたいでっ……」


そう言いながらしゃがみ込み、両手で口を覆いながら嗚咽する彼女は、少しもサヤのことを忘れてはいなかった。

明るく笑い、楽しそうに話していても、そうだよな。そうなんだよ。どれだけ時間が経ったって、忘れらんねえんだよ。俺だって同じだ。


「蓮くんはほんまに、沙耶にピアノを教わったんやねえ」


似ていると言われた。まるでサヤが弾いているみたいだったと、彼女は泣きながら言った。

そうだ。北野に教えてやんねえと。やっぱり俺のピアノは、初恋のひとに似ているらしいって。


「……みっともないところ見せて、ごめんね。私これからレッスンあるねんけど、どうする? 蓮くん、もう帰る?」

「あ、まだ……」

「そう。ここは好きに使てええし、飽きたらいつでも帰ってな」


若草色のハンカチで涙を吹いた彼女は、恥ずかしそうに小さく笑って、部屋を出て行った。