床に飛び散ったカフェラテ……。壊れてしまったカップとソーサー……。

 嶺司が去って行った後、聖愛は床に両膝を着いて座り込み、その無残な姿になったカップの破片を片付けようと手を伸ばした。

「痛っ……」

 カップの破片は聖愛を嘲笑うかのように指に刺さり、みるみる指を赤く染めて行く。元夫だと言うあの人が、いきなり怒りだしたのは何故なのだろう……。カフェラテが嫌いだったのかしら?私が何か余計な事を口に出してしまったのかしら?一生懸命考えてもなにも思い当らない。先程の出来事を何度も何度もビデオテープを巻き戻す様に思い出してみるが、全く分からない。
 唯々、嫌悪と憎悪に満ちた冷ややかな顔で見つめられた、あの氷のような顔が残像として心の奥底に残るだけだった……。

 暫くしたら通いの早番のメイドさん2人がやって来て、使用人の通用口になっているキッチン隣の食品庫の勝手口玄関が開く音と、「おはようございます」という挨拶の声が聞えて来た。暫くキッチンで仕事前の雑談のような会話をする声がしていたが、その声が段々とダイニングに近付いてきて、聖愛と割れて散乱したカップを見つけてたらしく、「あら、まあ……。大変!!」と驚く声が聞えて来た。

 「奥様、大丈夫ですか?」一人のメイドが心配そうに声をかけると、「須崎さん、もうあの人は奥様じゃないわよ!! 旦那様が哀れんでメイドとして置いているだけの人だから、私達の後輩よ。そんな下手になる事無いわよ!!」、もう一人のメイドが嫌な目で睨むように見ながら制するように耳打ちした。

「ちゃんと片付けて置いてよ!!」
 
 耳打ちした方のメイドがキツそうな声で聖愛に言った。

「はい……」

 聖愛が弱々しい声で返事をした。

「大谷さん、あんなキツイ事言っても大丈夫?」
「大丈夫よ、もう離婚して旦那様とは他人なんだし。旦那様もかなり嫌ってる厄介者だもの。下手に出ると勘違いして図に乗るわよ。立場をハッキリさせておかないと」
「それもそうよね……。じゃあ、お掃除始めましょうか」
「そうね。行きましょう」

 二人は用具入れから掃除用具をとり出すと、2階ヘと上がって行った。2階の方では先程のメイドの「旦那様、おはようございます」と挨拶をする声と、嶺司が何か用事を言いつけてる声が聞えて来た。

 ――そっか……。私は厄介者で、誰からも嫌われる疎ましい存在なのだわ。人からどう思われているのかも分からない。自分が何者なのかも分からない。誰からも愛されないし、愛する人もこの世の中に一人として存在しない。例え私がいなくなっても悲しんでくれる人もいないし、突然消えていなくなっても誰も気にも留めないような、そんな存在なのかもしれない。
 空虚な孤独感が押し寄せてきて、押しつぶされてしまいそうなそんな気持ちになった。
 唯一の光は、あの病院で目覚める前に見た温かな光と、あのお年寄の声……。あれは夢の中だけの架空の人だったのかしら?それとも本当に存在する人なのかしら?あれは一体……。

 『……ナ。……ナ』

 耳鳴りのように、あのお年寄の声が遠くから聞えて来た気がした。一体なんて呼ばれていたのかしら?あれは絶対……。ううん。多分、”セナ”とは言って無かった気がしてならない。名前ではなかったのかしら?
 ぼんやりとしていたら、背後から声をかけられた。

「大丈夫ですか?」

 渡部さんだった。(そろそろ旦那様の出勤時間でお迎えにきたんだわ……)

「あ……。すみません。失敗してしまって……。今片付けますので……」

 聖愛は慌てて、割れたカップとソーサーを集めようとした。その時渡部が「危ない!!」と聖愛の腕を掴んだ。

「手から血が出てますし、素手で破片を集めるのは危険ですから……」

 渡部は聖愛を近くのダイニングチェアーに座らせると、救急箱を持って来て、切れた指を消毒して傷絆創膏を貼ってくれた。それから手慣れた感じでフロアブラシとちり取りで割れた食器を片付け、モップでコーヒーを拭き取った。
 
「ご面倒おかけしてしまって、本当にすみません」
「いいえ構いませんよ。今日は指も怪我されてますし、簡単な食品庫の食材と倉庫の備品の在庫確認のお仕事をお願いします。終りましたら、他の者の補助的な手伝いをお願いします」
「はい。分かりました」
「それから、聖愛さんの事に付いて私なりに調べた事をまとめておきましたので、お時間のある時にでもご覧になって下さい」
「ありがとうございます」

 渡部からファイルを受け取ると、今すぐにでも中を開いて見たい衝動と見たく無い気持ちが複雑に交差した。
 いったい自分は何者なのか?どんな人間だったのか?とても気になるが、ここに来た僅かな間に感じた、自分に対する回りの冷ややかな反応に、よっぽどの酷い人間だったのだと感じた。それを思うと見るのが恐ろしい気持ちにもなった。
 
 あまり浮かない表情をしていたからだろうか……。

「お困りの事がありましたら、何でも私に相談して下さい」

 渡部さんが優しく気遣ってくれた。

「ありがとうございます。私って、記憶を無くす前は本当に酷い人間だったのだなと、回りの反応で分かります。その事を思うと過去の自分と向き合う事が恐ろしいような気持ちになってしまって……」
「今の聖愛さんは、本当に別の人みたいだって感じます」
「そんなに違いますか?」
「はい。全く別人ではないかとも思えて来ます」
「そんなに……。益々過去の自分と向き合う事が恐ろしくなってきます」

 青ざめて強ばった顔で聖愛が言った。

「でも、過去は過去……。今とその先が重要なのではないかなと私は思いますよ。今の貴方なら、誰でも好感を持つようなお人柄だと……。旦那様だってきっと今の聖愛さんだったら好感を持たれると思います。もしかして、今のその姿が聖愛さんの本当の姿であって、何か理由や原因があって、冷たく刺々しく気性の荒い方だったのかもしれませんね」
「冷たく刺々しく気性が荒かったのですね」

 聖愛は、軽い溜息をついた。

「今の貴方のままでいれば、回りの空気も貴方を取り巻く状況も、きっといい方向に変わって行くようになると私は感じますよ」

 渡部は優しく微笑んだ。聖愛は空っぽの心に一筋の光のような物を感じた。
 
「渡部さん、ありがとうございます。私、今のままの私で居続けます。自分の過去を思い出したとしても、もう戻らない様にしようと思います。いいえ、絶対に戻りません」

(第9話に続く)