(――えっ。痕がない?! )

 聖愛との結婚生活は、結婚直後から歪(ひず)みが出始め、二人の思い出といったら、ヒステリックに叫び散らす歪(ゆが)んで醜い聖愛の顏、彼女が癇癪を起こし、まるで駄々をこねる幼児のように髪を振り乱し荒れ狂う姿。彼女が怒り任せに物を投げる時の割れる物音。そして、離婚を決定づけたあの日の出来事……。氷のような瞳に冷酷な笑みを湛えながら男と戯れる獣のような姿……。
 だから、愛し合った記憶と言えば儚い蜉蝣のようなものだが、確かに朧げに記憶にある彼女の肌には丸く小さな火傷痕のようなものがあった。程度としては、それ程深刻になるぐらい酷いものではないが、若い女性なら気になるかもしれない。特に腹部に集中していて、服に隠れて分からないし、幾度となく嶺司も慰めるような言葉をかけたが、いつまでも癒えぬ大きな心の傷となっているのだろう……。その為か人前で肌を見せるのを嫌い、夏場でもノースリーブや丈の短いトップスは絶対に着なかったし、パーティドレスもノースリーブタイプや肩回りや胸元の露出度の高いデザインのものは避けるか、必ず上にシースルーのストールやボレロを羽織ったり、水着も必ずワンピースタイプしか着なかった。

 お互いに目と目を見交わせて、暫く沈黙が続いた。

「程度としては、それ程酷い深刻な感じでは無かったが……。腹部に多数の小さな丸い痕があったはずだ……」

 初めに沈黙を破ったのは嶺司の方だ。驚いて大きく見開かれた目は、確認させてくれと訴えているように見えた。人前でお腹を出すだなんて……。大きな躊躇いがあったが、真実を確認したい。聖愛は意を決して服をたくし上げて、お腹の辺りを出して見せた。

 それは……。染み、傷一つない真っ白で艶やかな肌だった。

「本当に……。ないな」

 嶺司もかなり混乱し、動揺しているようだった。

「やはり、違うのですね。私やはり、藤城聖愛ではないのかもしれませんね」

 少し分かって来た自分の姿が誤りであったとしたら……。聖愛では無かったとしたら……。私は一体何者で誰なのだろう……。

「今まで全く思いつかなかったが……。もしかして、聖愛には鷲尾家の戸籍には載ってない、血を分けた姉妹がいるとか、双子だったと言う可能性も考えられると思うのだが……」
「姉妹とか……。双子……ですか」

 聖愛は、その可能性は大きいと思った。もしかして、両親が別れる時、一人は鷲尾家に引き取られた聖愛で、もう一人は母親に引き取られた私なのではないだろうか……。そうだとしたら、私は聖愛と双子の姉妹の片割れという事になる。
 嶺司も全く同じ事を考えている様子で、突然聖愛の肩に両手をかけ、長い間解けなかったパズルが、呆気なく解けたような閃いたような顔をして、「だから、まるで別人のようだったんだ!!」確信したように言った。

「別人?」
「そうだ……。そうなんだ。初めて君と出会ったあの時……。相模之原ポルセイレンミュージアムの初めてのデートの時……。その時の聖愛は君だったんだ。何故入れ替わったのか? 真相は分からないが、あの時の君は、今目の前にいる君そのものなんだ。そして2度目に会った時からは本物の聖愛に戻った。だから違和感があったんだ」
「という事は……。私、嶺司さんを騙した事があるのですね」

 一目惚れした、ただの幻想だったのかと諦めていた人が突然目の前に現れ、心の時めきと喜びで一杯の嶺司に対して、聖愛は浮かない顔だった。

「もし嶺司さんの言う事が事実だとしたら、私は聖愛になりすまして嶺司さんを騙した事があると言う事ですよね? 聖愛でも、聖愛じゃなくても、私はとっても悪い人だったのですね」
「もしそれが真実だったとしても、私は構わないよ。ずっと思っていた人が突然目の前に現れたのだから……」

 そんな事はまるで気にしてない様子で、嶺司が嬉しそうに言った。

「聖愛じゃなければ、私は一体……」
「君の実の母親の事をもっと詳しく調べたら、真実が分かると思うんだ。兎に角調査してみるよ」

 ――それから私は妹を意味する中国語。“メイメイ(妹妹)”からとって、メイと呼ばれる事になった。単純にその響きが可愛らしく女性の名前らしい雰囲気だからと、何故かそうなった。
 実際は、妹なのか姉なのか? 本当に双子だったのか? 何も分からず仕舞いだが、とりあえずそう呼ばれる事になった。

 また振り出しに戻ってしまった。私は何者で、何故相模之原湖で溺れたのだろう? 漠然と、あの夢の事が思い出され、とてつもない不安な気持ちが押し寄せてきた。

『消えて!! 私の前から消えてよ!! あんたなんか居なくなればいい!!』

 あの恐ろしい形相の私は実は私じゃなくて、本物の聖愛だったのでは無いだろうか? あの湖の事故の時、大量に睡眠薬を飲んでいたらしいが、飲まされたのでは? もしそうだとしたら、聖愛は私の事を憎んで殺そうとしたと言う事になる。
 本物の聖愛は今何処にいるの? 何処からか、私の事を氷のような冷たい目で見つめているかもしれない……。そして、また殺そうと狙っているのではないだろうか? 

 ――激しい恐怖心が全身を包んだ。 

 (第15話に続く)