――玖鳳グループの跡継ぎ……。
 何となく予測はしていた。もし子供が出来た事を総帥が知れば、放ってはおかないだろうと感じていた。でも、ここまで用意周到とは……。あまりの身勝手さに怒りを通り越して、呆れてしまう。智弘のたった1人の肉親である、おじい様なのだからと、寛大な気持ちでと思っても、今まであった様々な事を思えば、その気持ちも萎んで行き、心の狭いことばかり思ってしまう。どうしても好きになれない人だ……。
 ついこの間まで玖鳳家から追い出される扱いだったのが、今度は跡継ぎが出来たからと別荘に軟禁状態の様に身柄を拘束され、まだ生まれる以前の我が子に、玖鳳グループの跡継ぎとしての重責を課そうとする。
 将来どの道に進むかは、子供の自由だ。生まれる前から総帥の思う通りのレールを敷かれ、その上を走らなくてはいけない運命だなんて。改めて、智弘の置かれて来た環境の過酷さを痛感した。

「すみませんが、総帥のお考えに沿う事は出来ません。友人が待っておりますので……。折角のお申し出でですが、ご辞退させて頂きますと総帥にお伝え下さい」
「そうですか……。ですが、そうなりますと、ご友人にご迷惑がかかるような事が起こるかも知れませんが?」

 体格のいいその男は、やはり秘書だろうか?総帥に似て隙の無さそうな目をしている。『友人に迷惑が……』大体は想像がつく。あらゆる分野の企業と繋がりのある玖鳳グループ。恐らく、美帆姉の会社の取引先企業に圧力をかけて、乳製品や農産物を納品出来なくさせるような嫌がらせか?あらぬ噂を流して信用を失墜させるような……。
 美帆姉に迷惑がかかる!!杏樹は、腸が煮えくり返るような怒りを感じたが、大切な友に迷惑がかかる事は避けなくてはと、この男の提案を受け入れる事にした。
 
「分かりました。では、友人に、別荘に行くと伝えにいきますので少々お待ち下さい」
「では……。私もご一緒に行きましょう。奥様のお荷物を別荘にお運び致します」

 玖鳳グループ所有の別荘で世話になると杏樹が話したら、美帆姉とクマちゃんは、一瞬お互いに顔を見合わせて不審そうな、心配そうな表情を浮かべたが、杏樹が心配いらないから大丈夫と説明して、一応納得した。

「何か困った事があったら、遠慮無く私を頼ってね!」

 何か嫌な予感のする美帆姉は、杏樹の事を蔑ろにして苦しめてきた玖鳳グループの息のかかった別荘には行かせたくない気持ちだったが、家業の酪農と農業で、杏樹に十分な気配りが出来ない事も確かだ。渋々という気持ちで杏樹の別荘行きを承諾した。

「大丈夫だから!!子供じゃないし!!そんなに心配しないで!!」

 精一杯の笑顔を作って、美帆姉に心配かけないようにと杏樹は振る舞った。
 美帆姉は杏樹を抱きしめるようにして、耳元で囁いた。

「玖鳳グループの息のかかった場所に行かせるのは本当に心配だわ。本当に困った事があったら、遠慮しないですぐに連絡頂戴よ!!」
「うん。分かった。美帆姉本当にありがとうね」

 杏樹も美帆姉に抱きしめられながら、小さく呟いた。


 * * * * * 


 玖鳳グループの別荘は、病院から車で15分程の、太平洋が一望出来る高台にあった。管理人も置いてきちんと管理されてきたようで、庭木や室内の掃除も行き届き、非の打ち所のないような状態だった。だが、長年使われてないような、生活感の全く無い、空虚さの漂う重々しい空気が流れていた。
 真っ白な壁の近代建築風の建物。高い吹き抜けに、大きな窓ガラスからは明るい光が射し込み、青々とした太平洋が一望出来る。総帥の好みなのか?大きなキャンバスに描かれた力強いタッチの油絵の風景画が掛かっている。家具類は、英国ジョージアン王朝時代の家具様式を現代的にアレンジしたデザインで、ごてごてとした装飾は押さえ目でありながら優美で、かつ、どこか重々しさのある家具、調度品で統一されている。

 ――気品に溢れ非の打ち所のない家だが、何処か重々しい……。
 おまけに、看護師の資格も持っていると言う、これから杏樹の身の回りの世話をするという40歳代前半ぐらいの高宮(たかみや)と言う女中……。とても好きになれない雰囲気だ。あまり表情も無く、淡々としてて、口調も固い。化粧も極めて質素で、髪も後ろで一つにまとめ上げて、全体的に固い雰囲気。これで白いブラウスと黒いタイトなスカートを穿いて、この人には楽しい事などあるのだろうか?と思えるぐらいの人物だ……。
 この家を取り仕切る、50代前半の執事羽田(はだ)は更に輪をかけて、堅物といった雰囲気……。おまけにここまで杏樹を連れて来た、あのがっちりした男、斉藤(さいとう)が目を光らせて、杏樹の動向を始終うかがっているような有様。あの斉藤は、総帥の側近、会長秘書兼SPらしい。
 他には数名の職員がいるが、皆、淡々と自分の職務を全うするようなタイプばかり……。

 ――ふと結婚して入った、白金にある玖鳳家の屋敷を思い出した。あの家も重々しくて息の詰まるような所だった……。
 大正ロマンを漂わせる歴史ある洋館。それに合わせた美しくちょっとレトロな照明器具、調度品。重厚感あるカーテン、名のある職人の作った手作りのステンドグラス。どれもが素晴らしい風格のある家だったが、全てが灰色に見えてしまう重苦しい空気があった。
 あの家の執事も、女中達も、冷ややかで心を何処かに起き忘れてきたのではないかと思えうような雰囲気の者達ばかりだった……。

 高宮に部屋に案内され、杏樹はなだれ込む様にベッドに横たわった。
 ――凄く疲れた……。
 忘れかけていた悪阻も復活して来て、胸がムカムカしてとても気分が悪い。そんな時に、携帯が鳴った。
 ――智弘からだ。
 
「もしもし……」
「杏樹か!!美帆さんから事情は聞いた。大丈夫か?」

 非常に慌てたような声の智弘。
 
「うん。ちょっと悪阻がぶり返してきて、あまり気分がいいとは言えないけれど、何とか。今ベッドに横になってる所」
「もっと早く手を回しておけば良かった。また辛い思いをさせて、本当にごめん」
「ううん。暫くは大人しくここに居る事にするわ。総帥の言う通りにしておかないと、美帆姉に迷惑がかってしまいそうだから。でも、あなたには悪いけど、この子を玖鳳家の跡継ぎにさせるつもりはないから……」
「それは俺も同じ考えだから、安心して欲しい。それから、なるべく早く退院出来るように掛け合って、出来るだけ早くそこに行けるようにするから」
「うん。あまり無理はしないでね」
「今回の事があったからと言う訳ではなくて、元々考えていた事があるんだ。その事を少し早めに実行しようと思ってる。杏樹と俺と生まれてくる子供の幸せの為に……」
「えっ?」
「まあ、それはそっちに行ってから話すよ」
「うん」
「俺を信じてついてきてくれるか?」
「ええ。信じる」


 * * * * *


 ――それから3日後、智弘は急ぎ退院して、玖鳳家の別荘にやって来た。

「あなた!!」

 不安な気持ちと悪阻の悪化で、心が不安定な状況になってしまっていた杏樹は、智弘の姿を見付けると、つい妊婦だと言う事も忘れて走り寄って飛びつくように抱きついた。

「杏樹っ!!そんな走っちゃ駄目だぞ」

 驚いて目を丸くする智弘、その後に頬を染めて愛おし気に杏樹を優しく抱き寄せ、髪の毛にそっとキスをした。

「凄く会いたかったよ」
「私も……とても会いたかったわ」
「積る話もあるし、暫く2人でゆっくりさせてくれ!!」

 智弘は、斉藤の方を見てそう言うと、杏樹の手を取り一緒に夫婦の寝室に入って行った。そして扉を閉め、暫くドア越しに外の様子を伺って気配が無い事を確認してから、杏樹をベッドに座らせて、智弘もその隣に座って、杏樹の手を取って自分の両手で包み込んで小声で話し始めた。

「杏樹……。これから俺の言う事を聞いてくれ」

 その真剣な眼差しは、仕事の時に見せるピリリとした表情に似ていて、杏樹はそれは容易な事ではないのだと言う事を感じた。
 そして話しを聞き終わった杏樹は、とても驚きの表情をみせた。

「それは……」

 暫く沈黙が続いてから、また杏樹は口を開いた。

「本当に良いのですか? あなたはそれで……」
「ああ……。ずっと考えていた事なんだ。そして出来るだけ早く実行に移したいと思っている。杏樹には何度も辛い思いをさせて本当に済まないと思ってる。だけど、これが本当に最後だ。俺にとって一番大切な家族は、杏樹とこれから生まれてくる俺達の子供だ。だから、その為にも……」
「あなた。ありがとう……」
「じゃあ、いいね」
「はい」

 ――その翌日、2人でちょっと気晴らしに出かけると告げて家を出た。そしてその足で役所に行き、離婚届を提出し受理された。3度目の正直と言うのだろうか……。杏樹の書いた3枚目の離婚届は、正式に受理された。
 子供の親権は杏樹に、子供は玖鳳家とは一切関わり無く、グループ後継の責任を追う必要も一切無しという旨の念書を渡した。それから、離婚後のそれぞれの戸籍謄本を取り寄せ、総帥に提出した。

 ――杏樹は、玖鳳家の別荘を後にした。

 《第31話に続く》