智弘が事故を起して軽井沢の救急病院に搬送されたと連絡が入ってから、杏樹はすぐに病院に駆けつけた。

 その日は日中は非常に暖かく、夜になってから急に温度が下がり、かなり冷え込んだ。その為路面は凍結し、スリップ事故の多い日だった。
 智弘の運転する車は、スピードは大して出してなかったもののアイスバーン状態の路面で突然スリップ、雪道に不慣れな事もあって、焦って急ブレーキと急ハンドルを切ってしまった。その為車の操作が制御不可能状態になって、スピンしながら路側帯の残雪が壁のようになっている所に側面から激突、運悪くエアバッグが効かなかった。
 エアバッグは正面からの激突には力を発揮するが、側面からや後方からの場合、作動しなかったり効果を発揮できなかったりする。智弘の車は側面からの激突の角度が悪くて、エアバッグが作動しなかった。その為側面ガラスに頭を強打してしまった。

 病院のCT検査で、頭部外傷、内出血が分かり、すぐに緊急手術。
 術後、ICU病棟で眠っている智弘の姿は、頭は包帯でグルグル巻きにされ、口には呼吸器の管が取り付けられ、それ以外にも点滴やその他沢山の管が付けられてて、その姿を見ると本当に智弘なのか?違う人なのではないか?と思えてくる。
 そんな姿でピクリとも動かず、ただモニターの電子音だけが聞えてくる状態で、とても痛々しかった。
 大切な人が、こんな酷い目に遭ってしまったと思うと、心が破けてしまいそうで、大声で泣き叫びたい気持ちだった。けれどその気持ちをグッと堪えた。こんな所で泣くなんて……。今、一生懸命戦っている智弘に申し訳ないような気持ちがした。泣けば頑張ってる智弘が、戦いに負けてしまわないか?例え意識が無い状態でも、私が泣いてしまったら、とても危険な状態だよと不安がらせて脅えさせてしまうかもしれない。
 とにかく冷静にならなくては……。大丈夫だからね。早く元気になるからねって安心させないと……。

 杏樹は、智弘が軽井沢に来たがるのをいい事に、とても甘えすぎてしまっていたと反省し自分を責めた。春が来て、雪が無くなるまで、もう少し来るのを控えて貰うように、もっと強く言えばよかった。時々はお店を休んで、自分が東京に行けば良かった……。後悔の気持ちは止めどなく溢れる。今更後悔しても仕方ないのに、何度も何度もこうなる前にと、後悔の気持ちが溢れてくる。
 先生の話では、手術も成功し状態も今は安定してしているとのことで、この状態が続けば回復も早く命の危険の心配もないとの事で、ほんの少しホッとした。ただ、まだ予断を許せない状態にはあるとの事で、48時間は厳重監視が必要だろうとの事だった。それから回復を待たないとなんとも言えないが、頭を強打怪我したので、もしかしたら、後々何らかの後遺症が現れるかもしれないとの事だった。
 不安で考え出すと恐ろしくてたまらなくなるが、今は先の事は何も考えられないし、考えたくない。生きていてくれさえすれば、それだけで……。ぜいたくは言わない。そして早く目覚めて元気になって欲しいと思った。

 ほんの少し冷静になってから杏樹は、東京に連絡しなくてはと思って、唯一連絡のとれる相手である、智弘の携帯のアドレス帳を開いて、第一秘書の関谷に連絡を入れた。
 いつも冷静そうで、感情を表に表さない関谷だが、声が上ずって動揺している雰囲気を感じとる事が出来た。当然だろう……。智弘が度々軽井沢に来ていた事も、もしかしたら知らなかったのかもしれない。入院している病院名と、今の状況と、少し後遺症の心配もあるかもしれない事を告げた。関谷も出来るだけ早くこちらに向うと言った。

 この事を、総帥が知ったら……。具合が悪くなってしまうかも知れない。智弘の事を心配してくれるだろうか?それとも、2人の事を知って、とても激怒するのが最初なのだろうか?いいえ。たった1人の身内でかわいい孫だもの。心配されるに決まってる。会社の事も心配だ。せっかく智弘が頑張って来たのに……。でも、そんな事は考えるのはやめよう。兎に角、智弘が早く元気になる事が一番だ。


 * * * * *


 それから状態は安定を保ち、5日目に朦朧とだが、ゆっくりと意識がもどって来て口の呼吸器も取れ、7日目に初めて言葉を口にした。
 初めは何かパクパクと声にならない声を発してる状態だった。
 杏樹がそっと智弘の手を両手で包むようにして、話しかけた。

「あなた……私よ杏樹よ。分かる?」

 智弘は一生懸命搾り出すように、口をパクつかせ、初めは言葉にならくて、杏樹も一生懸命智弘の口の動きを見て、一語一句聞き漏らさないように集中した。智弘の口の動きを見ながら、杏樹が復唱した。

『ア・ン・ジュ……オ・マ・エ……ナゼ……ココニイル』

 杏樹はその言葉に少し違和感があったが、あまり深く考えないで答えた。

「何故って……。事故の知らせを聞いて、すぐに病院に駆けつけて、それからずっとあなたに付き添っていたのよ。本当に良くなって良かったわ。本当に心配したのよ」

 智弘は怪訝そうな顔をして黙って見ていた。それから誰かを探すように、目で回りを見回すような素振りをした。

「せ……きやは?」
「関谷さんは、あなたが回復して状態も安定してきたから、会社の事もあるし、一旦東京に戻って、それからまた来るって。会社の事は心配しなくて大丈夫だから、兎に角今は、良くなる事だけに専念して下さいとおっしゃってたわ」

 智弘は腑に落ちないような、何か記憶の糸をたどるような表情をして、考え込むように黙ってしまった。

 その後智弘は、体の方も順調に回復し、心配された後遺症の方も様々な検査の結果問題なさそうだと分かった。ただ、頭部の大きな怪我だった為か、所々記憶の糸が途切れている時がある様子で、混乱してしまうような、考え込む事があった。
 体の方は順調に回復してるが、杏樹は不安な気持ちで心が晴れない気持ちだった。あれから智弘の態度が他人行儀でよそよそしくて、目つきまで変わってしまい、結婚してすぐの頃のような、冷たくて心にバリケードを張ってる時の智弘に変わってしまったみたいだった。関谷や親しい人や親密な会社関係の者が見舞いに来たりすると、普通に会話して、にこやかに笑ったりもするのに……。
 杏樹に対しては、自分から話しかけないし話しかけると素っ気無い返事が返ってくるだけ。
 担当の脳外科の先生に聞いたら、脳に関してはとても複雑で難しく、CTやMRIでは脳の損傷は見られなかったが、もしかしたら記憶障害があるのかもしれないとの事だった。特に際立っておかしいと思える点もないので、徐々に回復するのではないかとの話しだった。

 ――そうよね……。命に別状なく、ここまで回復出来たのだから、焦らずにゆっくりと……。
 そう気を取り直して、自分を励ました時だった。病室のドアがスーッと開いて花篭を持った見舞いの女性が入って来た。

「智弘さん……大変だったわね」
  
  ――その見舞いの女性は、あの鷹乃宮千晶だった。

《第22話に続く》